ヒトは必ず、死ぬ。これほど確かなことはない。
だけど、君が悲しむことはない。嘆くこともない。私は何度も泣いてきたが、
「どれほど愛そうが好きでいても、100%の確率で、生きているうちに、死ぬときに、引き裂かれることを、移ろいゆく。全て壊れる定めにあり、この世界に永遠なるものは何ひとつない。それはごくごく自然ななことで、その日その日を一日一生の覚悟で生きるしかない」
心の法則
つまり、君も確実に死ぬのだから、「人生100年」という言葉に踊らされずに、「一日一生」をモットーに生きるのが良い。老いはどこからでも攻めてくるが、押し潰されないように、「一日」を大切に君が決めた目標を達成するように生きて欲しい。その秘訣は誰かに依存せずに自灯明、法灯明を①整理②整頓③清掃④清潔⑤習慣にして突き進んでほしい。
自灯明とは、自ら灯火になるように学び、法灯明というように、法を灯せ。
自灯明、法灯明をもっとも集約したのが清掃である。
清掃するには整理整頓されていなければならず、清掃を引き立てるのが清潔である。
死ぬときに、唯一その手に握ることができるのは、身体、言葉の業(カルマ)だけだ。
君は業から得た報酬だけを持って旅にでる。業は君を追いかけて行く。
業とはなんだろう?
「自業自得」あるいは「因果応報」という言葉がある。
受験に失敗したのは私が不勉強だったからであって、社会、先生、家庭のせいではない。責任転嫁を許さないのが業の理論である。つまり「業」とは、梵語(ぼんご)でカルマといい、和訳すれば「行為」を意味しています。さらにその人の行いとその影響力を含(ふく)めて「業」という場合があります。未来の果は、現在いかに行動するかにかかっている、と教える。
たとえば、他人を傷つけた場合、その行為はすぐに消えますが、傷つけた行為にともなう後悔(こうかい)や悪感情などが後に残ります。やがてその業によって後に必ず苦しみを感じます。これが果です。
果とは、縁起の果である。縁起とは、縁があって生起する、全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。つまりヒトはもともとなにもっておらず、何事も縁によって生じているのだから、良い縁になるように日常から良い行動を積み重ねます。因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。
業の種類には、身体、言葉、意志(行為)の三つの業があります。
悪行のエネルギーはグツグツ煮られて報いを受けるときには苦しみを味わうことになります。
ところが、(世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。 そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている心の法則を知らない人にとって、此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。
このように100年君を追いかける悪い業のエネルギーを軽く見てはいけません。自分の身体、言葉、意志によってつくる悪い業のエネルギーの報いは、私だけには返ってこないと錯覚しないことだ。「自業自得」のもとになる「自分」というバケモノは、欲望・怒りの身体、言葉、意志の三つの業にはたらきかけて、ポタポタしたたり落ちるだけの水滴でも、やがて大きな水瓶をいっぱいにする。その悪しきエネルギーでいっぱいにする。
例えば、「求不得苦(ぐふとくく)」といい、望むものが得られない苦しみがあります。こんな苦しみにエネルギーが注いだらどうなるのでしょう。手の届かないような高嶺の花ほど、実際よりも美しく見え、欲望をかきたてるものはない。手に入りそうもない、あり得そうもない「遠い何か」に憧れ追い求めるとき、君は苦しみの神経刺激にビリビリバリバリとさいなまれて、ドキドキドキドキと興奮して依存に縁に君は君を追いやるだろう。諦めろと言うわけではない。手に入っても入らなくても良いとこの煩悩や執着がもとで、結果的に苦が生じている真実から離れることが悟りの平安に至るための実践を楽しむのです。やがて“諸行無常(しょぎょうむじょう)””諸法無我(しょほうむが)”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)”の考えにたどり着きます。「三法印」と言われるこれら三つの道理は1セットで、これこそが宝物なのです。
同じように善き業のポジティブなエネルギーも心の水瓶にポタリポタリと蓄積して、やがて心地良い縁を招きます。
因果と道理
因果とは、原因と結果のことですが、忘れてならないのが「道理」です。
因果応報というように、
- 善因善果
- 悪因悪果
- 自因自果
という運命をつむぎ出す大宇宙の因果の法則があります。
玉ねぎ(因)のタネをまけば玉ねぎ(果)ができます。アボガドにはなりません。
玉ねぎが育つように場所を選んでタネを撒き、育つように面倒をみます。これが道理です。
つまり因と果の法則を活かすのは道理です。善いタネがあっても、正しい行いがなければ、善い結果にはならないのです。モノと文化の関係もおなじではないでしょうか?
他人の良くないところはよく見えるし、調子に乗って指摘したくもなる。自己肯定感がアップするしね。一方、見えにくいのは自分のよくないところ。自分の歪んだところを整えることが大事なのに「ちゃんと指摘できる自分は立派だ」と錯覚するがゆえに、いつまでも自分を整えることが先送りになる。サイコロ振って自分に不利な目が出たらイカサマで隠すようなギャンブラーのあり方だ。
他人が他人のこころをきれいにできるはずもないのに、いまテレビもSNSもギャンブラーだらけだ。GNPは他人事でなく目安のひとつだと思う。
十二縁起
十二縁起(または十二因縁)とは、過去世・現在世・未来世の三世に渡る業の因果関係とみる三世両重の業感縁起説ですが、解釈にはいくつかあります。
人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を円環にして示したものです。無明からはじまる苦の12の原因とその縁(つながり)を示しています。「四諦」を避けるために逆に執着によって生じる煩悩から逃げられない「苦痛」にしがみつく「因果関係(縁起)」による<こころ>のプロセスと「苦のシステム」を説いています。
十二縁起の支分は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死(刹那減)の12個であり「四苦八苦」の原因を正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になるという教えです。
つまり、苦しみから解放される、目指す「涅槃寂静」つまり「悟り」に辿り着けるとお釈迦さまは説かれたのです。
それが「十二縁起」の終わりにある「死」です。十二縁起が完成した時点で「刹那」という言葉がなく「死」を使ったと推察されています。「死」とは「死亡」の「死」ではなく「刹那減」です。「刹那」とは最小の時間の単位で「減」とは終わることです。つまり一瞬の終わりです。
この心の流れが『十二縁起』であり、一筆書きの円で描かれた「十牛図」の八枚目の絵「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう」で描かれた最高度の完成された智慧の象徴です。
十二縁起は円環することで、「無明」に戻り、一時的に空白状態に陥るが意思があれば、ある方向に向かって進み出す。刹那生減の連鎖が起こります。そこで大切になるのが志向性が働いている「環」であること、つまり「意志」の存在です。この意思がネガティブである限り苦の連鎖の避けようがなく、海に潜ろうが、山の頂上に逃げようが、どこまでも追ってきます。
解決の対策は、苦の連鎖を断ち切る方法をポジティブに受け入れることです。円環する十二縁起が何回循環しても断ち切るのはどんなに辛いことがあっても、「この程度で済んだか」と善のエネルギーで受け入れることです、つまり三法印の道理で、諸行無常・諸行無我を受け入れた先にある<涅槃寂静>の心境で受け入れると逆転がはじまります。
まとめ
社会人基礎力を周活・週活・終活で整える。世界は変わり続ける。生涯学習とルーティンで自分も変わり続けよう。
ゲンキポリタン大学
「ゲンキポリタン大学」では、「社会人基礎力」をコアに<人生100年時代の曼荼羅>を描くように、ライフシフトをバックアップするさまざまな講座を、さまざまな方を対象に、さまざまな形態で開催しています。ご都合に合わせた形態をお選びください。
「社会人基礎力」(全6回)
- 人生100年時代社会人基礎力3つの能力
- 社会人基礎力①12のの能力要素
- 社会人基礎力②前に出る力を育てる主体性と8つの基準
- 社会人基礎力③考え抜く力を育てる思考法
- 社会人基礎力④チームで働く力
- 社会人基礎力に追加された3つの視点
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