こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaoman-Minoruです。
今回は「マインドフルネス実践講座」で説明している空海(弘法大師)の『秘密曼荼羅十住心論』概論をご説明します。
真言密教(真言宗)の開祖、弘法大師(空海)が何をしたかという話は繰り返し伝えられますが、その教義は密教の根本本尊「大日如来」に集約されています。「大日如来」は、宇宙全体をつつみ込む絶対的な存在で真理そのものです。どういうことでしょう。
真言密教では、大日如来とはお釈迦様が現世に現れた姿とされています。大日如来の慈悲と智恵の光はこの世のすべてのものを照らしだしていると考えられています。大日如来の教えを理解する(さとりの境地に至る)には、自分自身が大日如来になりきることだと説きました。
偶像崇拝が日常的になったのは大日如来というシンボリックな象徴の影響が大きいようです。大日如来とはなにか、大日如来に至るプロセスを記したものが「秘密曼荼羅十住心論」であり、空海を理解するうえで欠かせないのが「秘密曼荼羅十住心論」です。
では、「秘密曼荼羅十住心論」を紐解いて参ります。
秘密曼荼羅十住心論とはなに?
空海は実在の日本人でありながら、人間を超えた存在。
神や仏と同じように信仰を集める希有な人物です。空海が開いた真言密教(真言宗)は空海の存在ゆえに宗教として現在に受け継がれています。
空海の思想をひとことに要約すれば「即身成仏」です。
即身成仏とは、「誰もが生きたまま仏になれる」ことです。
「生きたまま仏になれる」とは、あの世ではなく、現世での救いにこだわるということ。
つまり、言葉で教えを説くのではなく「何をすれば救われるか」・・・徹底して実践主義を貫いたところに空海の凄みがあります。
この世で「し合わせ」に暮らすことが、「究極の覚り生活」だとした点こそ空海の真骨頂です。
つまりブッダの教えが哲学であり、その後の宗派がブッダの教えを自己流に補足、改編したものであるのに対し、空海の教えは徹底した「現世利益の追求」「現実を肯定して生きる明るさ」なのです。
『秘密曼荼羅十住心論』は「究極の覚り生活」の哲学本であり、ガイドブックです。
人の心の成長を10段階で表した『秘密曼荼羅十住心論』
空海(弘法大師)は生涯を通じ十巻からなる大作『秘密曼荼羅十住心論』を晩年に完成させておられます。
『秘密曼荼羅十住心論』は真言密教の教学の集大成とされているものです。
『秘密曼荼羅十住心論』は仏教・唯識・儒教・道教など東洋の思想を網羅。仏教の諸宗派を統合した空海独自の綜合思想。人類、自然、宇宙をつなぎ生命を大肯定したものです。
『秘密曼荼羅十住心論』は略して『十住心論』と表現されることもあります。要約本に『秘蔵宝鑰』があります。
内容は人の心の成長を10段階であらわしていて、段階ごとに宗派をあてはめている点が特長的です。
つまり真言密教は、お釈迦さまが亡くなった後に登場した宗派を超越していることを暗示されています。
秘密曼荼羅十住心論と十二縁起・十牛図
『秘密曼荼羅十住心論』は、お釈迦様の十二縁起(十二住心にも出てきます)に似ています。また『西遊記』で有名な三蔵法師がインドから持ち帰り解読に生涯を費やした唯識、禅の入門書と言われている「十牛図」にも通じています。
①尋牛(じんぎゅう)
②見跡(けんせき)
③見牛(けんぎゅう)
④得牛(とくぎゅう)
⑤牧牛(ぼくぎゅう)
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
⑧人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
⑨返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
第一住心/異生羝羊心 (いしょうていようしん)
「第一住心」は欲望のまま、好きにやっているようですが、内面的には人間以前の状態にあり、苦しんでいますが、それさえ認識できない状態にあります。
異生羝羊心 (いしょうていようしん)
「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。(ぼんぷきょうすいして、わがひをさとらず。ただし、いんじきをねんずること、かのていようのごとし。)」
無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。禽獣の如き心の段階をいい、欲望のあることを知って、その欲望の意味も調整する方法も知らない。人間以前、倫理道徳以前の状態であると説明しています。
性交(愛欲)、衣食住のことしか頭に無く、何も考えず本能のままに生きている、無明の闇が最も深い状態(常態)。つまり動物のように、欲望のままに生きる心。 善・悪を弁えることのできない迷いの心。
自我に囚われ、自己所有への執着を常に胸中に懐いている状態。
「喩えば獣が陽炎を追って水をもとめ、(蛾が)華やかな火に飛びこんで身を焼くようなものである。さながら雄羊が水草や婬欲のみを思っているのと同じであり、さてまた無知な子供が水に映った月を欲しているようなものである。」
十牛図①尋牛(じんぎゅう)公案は「牛が逃げているとはどういうことか。」
第二住心/愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
『秘密曼荼羅十住心論』第二住心
愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。 (ほかのいんねんによって、たちまちにせつじきをおもう。せしんほうどうして、こくのえんにあうがごとし。)」
他の縁によって、すぐさま控えようとおもう。他の者に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するのと同じ。儒教的道徳倫理が芽生える段階。愚かな少年の心も、導くものあれば自らを慎み、他に施す心が起きる。倫理に目覚めた段階の心の状態。
ある程度人生経験などを積み、世界を学習しながら倫理、道徳性に目覚める段階。道徳の教えにより人間としてやや善なる心がきざしはじめる心。徳の高い人を見て敬い、供養する。あやまちを知れば必ず改め、賢人を見てはそれと等しいものになろうと思い、初めて因果の道理を信じ、だんだんと善い行いと悪い行いの報いの結果をうなずく。両親に孝行をし、国に忠義をつくす心の状態。
「例えば、節食してそれを他の人びとに与えることを喜び、親しき者・疎き者のわけへだてなく施しをする。足るを知る心が次第におこる。
十牛図②見跡(けんせき)公案は牛の足跡とはなにか。
第三住心/嬰童無畏心(ようどうむいしん)
嬰童無畏心(ようどうむいしん)
「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。(げどうてんにしょうじて、しばらくそそくをう。かのえいじと、とくしとのははにしたがうがごとし。)」
天上の世界に生まれ、しばらく復活できる。まるで幼児や子牛が母に従うように一時の安らぎにすぎない。宗教的心情が芽生える段階。
道教・インド哲学諸派。仏教以外の宗教でもこの世の限界を知るとき、それを超えて死後の安楽を願うものである。この段階の宗教心は、ちょうど幼児が母のふところにいる間は世間の苦しみを知らず安らかな状態。
世界の理不尽さ、無常さを実感し始め、宗教、哲学心が芽生えだし、自己との対峙、葛藤が始まる段階。仏の戒めを知り、来世に良い生まれ変りを望む心。戒めを守り、来世の安楽だけを願う世界。
戒めを守ることによって、現世において、もろもろのすぐれた恩恵を得、大いなる名声と利得によって身心が安楽になる。
ますます賢い善き心を増し広げて、死後には天界に生まれることができる。
十牛図③見牛(けんぎゅう)公案は「なにが牛を見るのか?」
第四住心/唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。(ただほうゆうをげして、われひとみなしゃす。ようしゃのさんぞう、ことごとくこのくにせっす。)
ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説は、みんなこのようなものだ。(声聞=ブッダの唱えた四諦(したい)を理解し阿羅漢(あらかん)になることをめざす修行者。)
存在や現象は五つの要素の集まりにすぎないという「無我」説の段階。
事物の本質は存在せず、人も万物も仮の存在を保つという宗教的認識の第一段階の心。
無明の闇の中を彷徨っている最中、思わぬ縁によって仏教に出くわし、仏教を学び始める段階。いわゆる禅に云う十牛図の④得牛(とくぎゅう)の段階。逃げ出した牛を捕獲した、つまり本当の自分自身の存在にやっと気がついた段階。
- ここで自分が今まで無明であったことに気が付き、法門が開きだす。
- 声聞(仏様とくにお釈迦様の言葉を聞いて悟る者)の境地。
- 自我には、実体がないことを知る。
- 自分の感じ知る事は五つの存在要素(五蘊)がかりに和合したものにすぎないと知る
- 自我を幻化・陽炎の例にたとえて明らかにする。
十牛図④得牛(とくぎゅう)公案は「牛を捕らえる綱とはなにか?」
第五住心/抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。(みをじゅうににしゅうして、むみょう、しゅをぬく。ごうしょう、すでにのぞいて、むごんにかをう。)」
一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除き、ただひとりで、覚りの世界を得る。
ブッダが唱えた「十二因縁」を観じて「苦」の原因である「無明」の種を除く段階(縁覚)。業因の種を抜く住心という意味。
事物の生起、縁起の法則を知り、迷い、業の種子を抜きはじめる段階。
傾向としては自分自身の悟り(利益)に重点を置いているので小乗仏教と呼ばれる。
縁覚(お釈迦様のように、前世よりの善い行いや、前世の誓いにより、ひとりで努力して修業し悟る方)の境地。
全てのことが因縁よりなると悟り、無明を取り除く心。お釈迦様のように、独りで、修行してさとる縁覚の体得する心。(独善)
- 縁覚は智慧が深い方であり、「生けるものの心に煩悩が生じ起こるのは、邪まな思惟(不正思惟)を主な原因(因)にして生じ、無明 (無知のこと) を間接的な条件(縁)によって生ず。」と悟られている。
- そして「一切の苦の原因は煩悩・妄執である。」と観られている。
- 因縁によって生じ、滅するありさまを十二に整理して観察し、四つの粗大な元素、人間を構成する五つの要素(色・受・想・行・識)の生滅の真理を知り、生死を厭わしく思う。
- 縁覚(辟支仏)は、因果の関係とはなれた真実の世界に悠々と住している。
十牛図⑤牧牛(ぼくぎゅう)公案は「牛を飼いならすとはなにか。」
第六住心/他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。(むえんんいひをおこして、たいひはじめておこる。げんえいにこころをかんじて、ゆいしき、きょうをしゃす。)」
すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。
他者を救済するために慈悲の行いを実践する大乗の「菩薩」の段階(法相宗)。
- すべての衆生を救うこと(他縁)を目的とする大乗仏教の最初の段階。(=菩薩の境地)
- 他人の悟り(利益)にも重点を置きだす。この境地にある人を菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。
- 他縁とは、縁に囚われず、慈悲の心を全ての人に起こし、他者の救済のために働く心。
- 菩薩、つまり、ここにいう他縁乗とは、すべての人たちをみな同じく救済しようという大きな誓いをおこして、生きとし生けるもののために菩薩の道を実践し、不信心の者や声聞・縁覚のうちまだ安らぎの位にはいらない者をも、心服させて大乗の教えに入らしめる。
- 菩薩は、幻や陽炎のように、あるように見えて実際には存在しない心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。
- 菩薩は、心のみが真実であると悟る。心に映ったさまざまな映像は虚妄であると悟る。「唯識」と言う見方をされる。
(この世にはただ認識をすることのできる主体だけが存在するという考え方) - そしてことばも文字も離れた境地に、平穏無事の風をあおぐ。唯一真実の台に両手を組んで敬礼し、真理の世界に安らぐ菩薩の心の状態。
- ただ、その修行には無限に長い時間がついやされる。
十牛図⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)公案は「牛に乗っているとはなにか。」
第七住心/覚心不生心(かくしんふしょうしん)
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。(はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。)」
あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じれば なんらの相(すがた)なく安楽である。「空」の論理によって一切の実在を否定する「空観」の段階(三論宗)。
心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地〔中道〕に入ることを目指す。法相宗の心を示す。
心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
- 「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
- この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
- この絶対の自由の状態を心王という。
- それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と大師は説かれる。
- 本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
- 寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。
十牛図⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
公案は「まどろんでいるとはなにか?」
第八住心/一通無為心(いちどうむいしん)
一通無為心(いちどうむいしん)
「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。(いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。)
現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。
そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。
「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「空性無境」の「法華一乗」の段階(天台宗)。
万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天台の境地。
「一念三千(いちねんさんぜん)」や「十界互具(じゅっかいごぐ)」を説く法華経の世界。
凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
- 「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。
- 止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)
- 静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
- この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
- 「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
- 「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。
- 心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
- 自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
- 心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
- 菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」と弘法大師はこの状態を説明されている。
十牛図⑧人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)公案は「空白とはなにか。」
第九住心/極無自性心(ごくむじしょうしん)
極無自性心(ごくむじしょうしん)
「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。(みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。)」
水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。
対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の段階(華厳宗)。
世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。華厳宗の心の段階。
- 「法界縁起(ほうかいえんぎ)」や「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を説く華厳経の世界。
- 宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
- 仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。
- 華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
- 一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」
- 一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。
- 初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。
- しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。
十牛図⑨返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
公案は「美しい自然とはなにか?」
第十住心/秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。(けんやくちりをはらい、しんごん、くらをひらく。ひほうたちまちにちんじて、まんどくすなわちしょうす。)」
密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。宇宙法界の人間的な真実相を示す荘厳の「マンダラ」の段階(真言宗)。
ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。
真言秘密の境地
言語、分別を超えた境地である故に「秘密」と云う。「大日経(だいにちきょう)」「理趣経(りしゅきょう」を経典とし、言葉、文字を超えた秘密の世界を説く真言密教の世界。
世界、即ち大日如来(だいにちにょらい)と自己が一体化した究極の境地 機根 (信仰心と能力のある) を持つ者を、法界マンダラに入れしむ。
「全ての人は、貪り、瞋り、痴さを離れ、月輪の観想をすることにより本来の心の姿を見ることができる。それは清らかで、満月のように虚空に普くして隔てがない。」
修業者の心と、仏、そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。身語意の働きを本尊の働きと合一して初めて、この真理の世界にはいることができる。見たり、とかではなく、三密の合一によって、仏の不思議な力を感じ、この世界にはいることができる。「行人慇懃に修習して、よく三密を本尊に同ぜしむれば、この一門より法界に入ることを得る。即ち、これ普く法界門に入るなり。」加持をもって各々法界の一門より現じて、一つの善知識の身となることを得る。
この時、心が量り知れないことを知り、身体も無量であり、知も無量である。生きとし生けるものも(衆生も)無量であり、虚空も量り知れない。無量の心識、無量の身を会得する、ここに秘密荘厳心がある。
初めの法門の実行をした者を利益し、如来加持して、大神通力を奮迅示現したまう。一つの平等の身より普く一切の威儀を現ずる。この威儀は秘密の印でないものはない。
一平等の語より普く一切の音声を表わす。かくのごとき音声は全て真言である。一平等の心から普く一切の本尊(三昧の状態の本尊)を現ず。
しかし、この大日如来の三昧地の法を未潅頂の者に説いてはならない。たとえ、同じ行をしているものにも、容易く説いてはならないと、戒められている。
十牛図⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
公案は「人が往来する場所で「生きる」とはなにか?」
空海の本当の凄さ
ブッダの教え、すなわち仏教は哲学です。
禅は仏教のトレーニング、すなわち哲学のトレーニング。
お釈迦様が入滅されたのちに誕生した宗派は、それぞれの開祖による補足、再編といってもいいのかと思います、
空海が初めて密教に触れたのは、日本国内でした、日本にも、既に「大日経」という密教の経典が伝わっていました。
修行中に大日経の存在を知った空海は、経典のある奈良の寺に出入りして唐の言葉や梵字も勉強していたようです。しかし経典だけあっても真言の唱え方、印の結び方、曼荼羅の書き方は師匠から直接教わらないと実践できません。疑問を解くために唐に渡る決意をしたと伝えられています。
さらに当時の唐に行って知ったことは、世界の情勢だったのではないかと推察できます。
20年も唐にいたら人生が終わってしまうと感じた空海は、日本で理解していたことをベースに猛勉強、有り金はたき2年で帰国する事を決めたのでしょう。このダイナミックな行動力こそ空海の真骨頂ではないかと思います。
すべては日本で大学に入学、感じたことが原点です。
自分の人生は自分のものである。
自灯明、法灯明・・・主体性を自分が持つ大切さだったと思います。
まとめ
空海(弘法大師)は生涯を通じ十巻からなる大作『秘密曼荼羅十住心論』を晩年に完成させておられます。
世界遺産、高野山奥の院に空海は生きていると言われます。
毎日2度、空海の元に食事が届けられます。
このソウル電波にすべての人に捧げられたいのちの使い方がこめられています。
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