お釈迦様は、自身に苦悩があって、家庭を捨てて出家されました。
生まれながらの苦悩と言っていいでしょう。
仏典は、お釈迦さまの若き日の回想も伝えています。
それによると、お釈迦さまはインド地方(現在のネパールのルンビニー)にあった釈迦族の王(シュッドーダナ)とマーヤー王妃の間に長男として誕生して不自由のない生活を過ごされました。名前はシッダールタ。
がしかし誕生と同時に幼くして実母(マーヤー王妃)を亡くしたせいで、王妃の妹マハープランジャーパティーが育てます。
将来国王になる約束がされたシッダールタ王子ですが、実母マーヤー王妃のことを想い、なにかと物思いに耽る日々でもあったようです。
さらにアシタという仙人が、将来は「出家する」と告げたことで、王(シュッドーダナ)はそれを恐れてシッダールタ王子に享楽の日々を過ごさせます。
その後、16才にしてヤショーダラー(パーリ:ヤソーダラー)という娘と結婚し、一子ラーフラをもうけられたと伝えられています。
ところがある日、王子は城内を出て、城外を見て驚きます。
城外に隠すように住まわせていた老人や病人、死者の厳しい現実を目にしたのです。
「四門出遊」という有名なエピソードです。
四門出遊
お城は、城壁が城内を囲むように作られていました。
お城には、東西南北の方向に四つの門があり、外の世界と繋がっていました。
シッダールタ王子は、四つの門から出てみました。
東の門から出ると、苦しむ老人がいました。
南の門から出ると、やはり病人が苦しんでいました。
西の門を出ると、火葬場に運ばれていく死者がいて、悲しみにくれた人に囲まれていました。
シッダールタ王子は、四苦八苦の四苦である、「病」「老」「死」を知り、「生」には苦しみが満ちていることに初めて、気づきます。
残る北の門を出ると、そこには、苦しみのない平穏な表情の「出家者」がいました。
シッダールタ王子は、自分に与えられた「義務」について考えました。
将来を約束されていた「国王」の地位を捨てて、苦しみから解放される方法を見出すのが義務ではないかと思い至ったのです。
母への罪悪感で苦しんできたシッダールタ王子の想いとぴったり一致したのではないでしょうか?
「病」「老」「死」のように、どうにも避けがたい苦しみもあれば、「生」のように生きているだけで味わう 苦しみもある。
「一切皆苦」を避けて通れない理不尽を解決するために、妻のヤショーダラー、跡継ぎ息子ラーフラを城に残して出家しました。
ふたりの仙人のもとで行った修行は、心の持ち方をコントロールする瞑想が中心でした。
この方法では、苦しみから解放されなかったので、仙人から離れ、五人の仲間と共にブッダガヤーという山にこもります。ここで断食や呼吸停止などの苦行を行い、より多くの苦しみを体験されました。
骨と皮だけにやせ細りましたが、苦しみを感じない精神力を求めたのです。
お釈迦様が考えても考えても解決できなかった、お母様の問題。
自分が生まれなければ母は死ななかったと思いながら味わう母のいない孤独感と罪悪感。
仏教は、一人間の苦悩から開放から始まったプロセスの全記録と言えるでしょう。
マインドフルネスは、プロセスの全記録のエッセンスをもとにしたトレーニングです。
マインドフルネスは、お釈迦様がいちばん最初に説かれた、いちばん伝えたかった「四諦(したい)」、さらに入滅される前に説かれた「八正道(はっしょうどう)」がベースになっています。
お釈迦様がいちばん伝えたかったのは「四諦(したい)」
「真理」とは、「本当のこと」ですが、仏教では「法」と「諦」の二つの言葉で表現されます。
法を「縁起」・・・原因から生じること、諦を「四諦」・・・すでにあることと解釈できます。
二つの言葉は、「動かしがたいことがある」
現代的にいうなら「見えるシステムも、見えないシステムもあり、ひとつのシステム」だと言えます。
四諦では、すべての物事は「ひとつ」であると説いていると解釈できます。
これこそがブッダ(お釈迦様)がいちばん伝えたかったことで、その後に出てくる教えは「四諦(したい」」を核にした因果関係です。
いまの日本で「縁起」というと「縁起がいい」「縁起が悪い」というような表現が一般的です。
仏陀が言った「縁起」は意味が違います。
「原因=結果」で表すように、「すべの物事には原因があって、原因なしに生じるものはない」という意味です。
物事の見方、捉え方が縁起です。
「縁起には決まりである。我々がいても、いなくても、すでに決まったことである。
それは真理として確立され決定している。」
・・・これは仏教の経典に述べられていることです。
真理とは、本当のことという意味です。
では、「本当のこと」とはなんでしょう?
システム思考を知るエピソード
こんなエピソードがあります。
ある国の王様が部下に、生まれながらにしてのある国の王様が部下に、生まれながらにしての盲目の人を6人連れてきなさいと言いました。
部下は言われた通り盲目の人を6人連れてきます。
王様は「本当に生まれながらの盲目の人か?」と確認して、部下に次の指示を与えました。
言われた通り、部下は盲目の人の前に象を連れてきました。
次に王様は、「盲人たち各人に象とはどんな動物か、象の一部分だけを教えなさい」と部下に指示しました。
部下は、ひとりひとりに、象の全体を教えないまま、鼻、足、耳など象の特徴的な違う部位だけをバラバラに教えました。
そして、王様は、象とはどんな動物かを互いに議論するように言いました。
6人の盲人たちは、誰一人として象の全体を知らないまま、違う一部だけを知った状態で、象について語り始めました。
すると、盲人たちは、自分の教えてもらった象こそが、本当の象だと互いに主張を譲らず、ヒートして殴り合いにまで発展してしまいました。
王様はその様子を見てたいへん喜んだそうです。
「真理を知っていると議論をする人は、真理の一部だけを知っているから議論するのであり、真理を悟った人は議論はしない」というお釈迦様の教えを的確に伝えています。
このエピソードは、真理についてのエピソードですが、お釈迦様の教えと、システム思考の困難さを見事に表現しています。
「すべの物事には原因があって、原因なしに生じるものはない」・・・・確かにそうなのですが、因果の連鎖こそお釈迦様が本当に伝えたかったことではないでしょうか?
象のことは知っているが、象を理解しているわけではない。
上述したエピソードは、知ってはいるが、真理(=大宇宙)を理解しているわけではないことを伝えているのではないでしょうか。
真理は作るのではなく、すでにある
一人一宇宙が連鎖して大宇宙を形成している。
つまり真理はそこにあるのです。
真理はそこにあるのですから、作るわけではありません。
注意深く、丁寧に連ねていくことが大事になります。
真理は作るのではなく、そこにある。
原因も作るのではなく、すでに、そこにあるのです。
「一切皆苦」=人生はデコボコ道。
つまり苦がないように、デコボコ道を舗装してから歩こうとしても、すでにデコボコなのだから、できない。だから「一切皆苦」と説いておられるのです。
お釈迦様が、一番伝えたかったことは、一番最初に説かれた「四諦(したい)」です。
四諦(したい)は、
- 苦諦(くたい)
- 集諦(しったい)
- 滅諦(めったい)
- 道諦(どうたい)
四諦(したい)の意味
苦諦(くたい)とは、苦しみという真理(あること)
集諦(しったい)とは、苦しみの原因があるという真理(あること)
滅諦(めったい)苦しみの原因がなくなる真理(あること)
道諦(どうたい)とは、苦しみの原因がなくす方法がある真理(あること)
苦しみに対する私たちの概念とお釈迦様では、他のことと同じで真逆です。
お釈迦様にとっては、楽はなく一切が苦しみなのが真理です。(苦諦)
私たちは、苦はあってはならないもので、楽であるべきだと考えます。
なので、私たちは苦しみの原因はあってはならないもので、
お釈迦様は、苦しみの原因はあるのが真理になります。(集諦)
また私たちは苦しみの原因がなくなることはないと考えますが、
お釈迦様は、苦しみの原因がなくなるのが真理だと説かれます(滅諦)
さらに私たちは、戦争や環境問題を前にして苦しみの原因がなくす方法がないと考えますが、お釈迦様は苦しみの原因がなくす方法があるのが真理になります(集諦)
さて、『「一切皆苦」と言ってたのはお釈迦様じゃないのか、おかしいだろう?』と思いませんか?
一切皆苦=「人生はデコボコ道」
一切皆苦とは、「物事は思い通りにならない」と訳されますが、より正確にいうなら、「人生はデコボコ道だ」ということです。
山あり谷あり、自然災害のたびに国だ、行政だと大騒ぎになりますが、思い通りにならないのが自然なのです。
なにごとも思い通りにすることに慣れてしまって、思い通りにならないのが理不尽だとする思考の方が怖い気がします。
まとめ
仏教は、一人間の苦悩から開放から始まったプロセスの全記録です。
やがて10000人いれば10000の戦いとなり、地球上に広がり、それはいまも続いています。
人や生まれ、やがて死にます。人には厳然とした「ライフサイクル」があります。
終活は、すべての人に起こる問題ですが、あえて「終活」という言葉を使うなら、
マインドフルネスが深く関わった「八正道(はっしょうどう)」があるように、正しい終活があるのではないかと思います。
- 正見
- 正思
- 正語
- 正行
- 正命
- 正精進
- 正念
- 正定
以上が「八正道(はっしょうどう)」です。
(一社)いきいきゴエス協会としては、「正終」として「終活」を付け足したい気分です。
マインドフルネスは、プロセスの全記録のエッセンスをもとにしたトレーニングです。
マインドフルネスは、お釈迦様がいちばん最初に説かれた、いちばん伝えたかった「四諦(したい)」、さらに入滅される前に説かれた「八正道(はっしょうどう)」がベースになっています。
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