こんにちは、人生100年時代の「マインドフルネス実践講座」のコーチ、ゲンキポリタンです
人は面白いもので、いくつになっても、思考回路は変わることがないもので、かならずのように同じ失敗を繰り返します、本人は自覚もしているし、気をつけてはいるけど、それでも同じことで失敗します。
公私に言えることで「成功したい」「「し合わせ」になりたい」と口では言っていても、実際は「不幸になりたがっている」のではないかと思えるほどです。
自分に気づく・・・マインドフルネスは自分を知ることからはじまりますが、はたして自分を知ろうとしている人がどれほどいるのか?
カフェに座っていると、聞こえてくるのは、会ったこともないタレントの噂話や、上司の批判話、元彼の思い出話、あるいはスマホやバーゲンセールやテレビのこと・・・いちばん大事なのは自分を知る機会はいつどのようにしているのか、あるいは自分のことは無意識に潜らせたままなのでしょうか?
孔子曰く「七十になって、ようやくやりたい放題やっても、自然の摂理に逆らうことなく、自己実現できたよ」なぜ孔子ほどの人物が70年もかかったのか。
人生100年時代、気がつけば自分をマスターすることもなく認知症にかかっていたというのはちょっと寂しい。ここでは、自分と向き合う方法を探ります。
八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識(末那識・阿頼耶識)を指します。
これら八種の識は総体として、個人、個人それぞれのの認識・意識があり、無意識も含めて、相互に影響しあって意識を形成しているというもの。
- まず、視覚や聴覚などの感覚も唯識では識と考えます。
- 感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき=視覚)・耳識(にしき=聴覚)・鼻識(びしき=嗅覚)・舌識(ぜつしき=味覚)・身識(しんしき=触覚など)と呼びます。
これら5つを総称して「前五識」と呼んでいます。 - その次に意識。(自覚的意識)があります。六番目なので「第六意識」と呼ぶこともあります。
前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)と呼びます。
六識は、現代でいう「第六感」にあたります。 - 六識の下にある末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識があります。
- 末那識は、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれます。
熟睡中は意識(六識)の作用は停止しますが、その間も末那識は活動をやめず、自己に執着するといわれています、 - 末那識の下には、阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)があり、これが根本心(識)と言われています。
- この阿頼耶識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して私たちが「世界」であると思っているものも生み出していると考えられています。
20 の随煩悩
煩悩といえば、やはり有名な三毒と六大煩悩が有名です。
しかし、煩悩はこれだけではありません。
煩悩が人の言動・顔の表情に現れ、他人がその煩悩を感じ取り、本人もその煩悩に傷付くと思われるのが、20の随煩悩です。
20の随煩悩には「自と他(=自分・他者)」「科学と宗教」というように分けることで生じる葛藤と煩悩があります。
相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。という分別が働いています。
20の随煩悩は、六識(=意識レベルの6つの根本煩悩)が源となっています。
- 怒り(忿・ふん)
- うらみ(恨・こん)
- ねたみ(嫉・しつ)
- ごまかし(覆・ふく)
- ものおしみ(慳・けん)
- だますこと(誑・おう)
- へつらい(諂・てん)
- 傷つけること(害・がい)
- おごり(憍・きょう)
- 内的無反省(無慚・むざん)
- 対他的無反省(無愧・むき)
- のぼせ(掉挙・じょうこ)
- おちこみ(惛沈・こんじん)
- 真心のなさ(不信・ふしん)
- おこたり(懈怠・けだい)
- いい加減さ(放逸・ほういつ)
- もの忘れ(失念・しつねん)
- 気が散っていること(散乱・さんらん)
- 正しいことを知らないこと(不正知・ふしょうち)
- 悩ませ悩むこと(悩・のう)
このリストを丁寧に読みながら、試しに自己診断をしてみてください。
自分の姿と重なる記憶が一つや二つ、身に覚えのある方が、いるはずです(笑)
身に覚えがないとはいかない悔しさは、無意識(深層心)の仕業です。
口を開けば自分は人生の達人のように言うが、自分について全くマスターしていないのは滑稽です。
この状態だけで、いくつの瑞煩悩が潜んでいるものか?数えるのもいやになりますね。
これら20の随煩悩の源泉は無意識層にある『末那識(まなしき)』です。
『末那識』は、無意識層にあり、私たちの意識によってコントロール出来ずにいます。
煩悩はこんこんと常に湧き出しますが、意識によってコントロール出来ずにいます。
煩悩にもがき傷ついた六識の体験は、阿頼耶識に沈み込み、ますます悩ましい人生の深みにはまってしまっています。
心に描いたライフデザインも煩悩にまみれ思うようにならないまま、私たちのライフスタイルになっています。
「煩悩は焼き尽くす」と言います
煩悩を焼き尽くす
香をたいて良い匂いを漂わせたり、護摩の火を焚いて、儀式をしたからといって、あるいはお祓いをしてもらったといって、煩悩を焼き尽くすことはできません。
煩悩を捨てよう、焼き尽くそうと思えば思うほど、煩悩の思うがままになって、抱きしめられて、悲鳴をあげることになりまする。
焼き尽くす方法は「フロー」の状態になることです。
自己実現をイメージ戦略して成功するか?
「自己実現」というテーマは「ビジネスセミナー」で頻繁に取り上げられます。
「起業セミナー」の動機、目標設定にもよく出てきます。
そしてイメージを写真にして毎日目に見えるところに貼っておきなさい。という話をよく耳にしませんか?
写真を眺めて「成功するぞ」と念じて、成功じた事例を実際に見たり聞いたりしたことがありません。
「無分別智」とは、識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいいいますが、写真を貼ろうがなにしょうが、すでに分別をつけた心には届かないのです。
孔子の論語
中国、春秋時代の学者で儒教の祖でもある孔子。
欧米でもとても知名度が高く、特にビジネスパーソンには人気があります。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。
子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の良くする所に従って、矩をこえず。
先生がいわれた。「わたしは十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばが素直に聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
つまり「七十になって、ようやくやりたい放題やっても、自然の摂理に逆らうことなく、自己実現できたよ」ということです。
いつの間にか考え事に意識が向いている。
無駄な時間にしてしまい、やりたいことから心が離れている、
孔子の「ようやくやりたい放題やっても、自然の摂理に逆らうことなく、自己実現できたよ」というのは、ようやく雑念にとらわれず、自分をコントロールしょうとせずにフローになれるようになったという意味です。
自分を見守るように見ることができるようになって、考える割合より、実感する割合が増えたということでしょうか。
自然の摂理に逆らうことなくとは、できることはできるし、できないことはできない。
摂理に逆らうとならないことにイライラして、できない、できないが深層心理にある「阿頼耶識」「末那識」とつながってネガティブなつながりを起こしてしまいます。
まとめ
いま自分の心はどこにあり、なにをしているのか。
マインドフルネス瞑想からはじまった「日常から見守る体験を繰り返している」ことで、無駄な考え事、無駄な動きを自覚できるようになっていきます。
マインドフルネスは、「阿頼耶識」「末那識」とのつながりを断ち切るように動きます。
- 怒り(忿・ふん)
- うらみ(恨・こん)
- ねたみ(嫉・しつ)
- ごまかし(覆・ふく)
- ものおしみ(慳・けん)
- だますこと(誑・おう)
- へつらい(諂・てん)
- 傷つけること(害・がい)
- おごり(憍・きょう)
- 内的無反省(無慚・むざん)
- 対他的無反省(無愧・むき)
- のぼせ(掉挙・じょうこ)
- おちこみ(惛沈・こんじん)
- 真心のなさ(不信・ふしん)
- おこたり(懈怠・けだい)
- いい加減さ(放逸・ほういつ)
- もの忘れ(失念・しつねん)
- 気が散っていること(散乱・さんらん)
- 正しいことを知らないこと(不正知・ふしょうち)
- 悩ませ悩むこと(悩・のう)
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