
こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日。日本代表ゲンキポリタンです。
煩悩とは心の苦しみ。心が苦しんでいるとき、クシャクシュしますよね。執着がひとつではく絡まっているからです。そもそも執着を絞りきれないので、解くのに時間がかかり、そのまましにしてしまいがち。それだと「特別な一日」はお金でイベントを買って消費で、終わりにするしかない。結果、執着は強化されるだけになります。悲しい生活にさようならしませんか?
特別な一日とは、ひとことに集約すれば、完全な自由と本性が認識できる慈悲に向かって行動している日。平凡ですが、煩悩を断ち切り、いまここ、あるがまま、対象になりきった「マインドフルネス状態」の一日。
ここでは、マインドフルネス状態の理解を深めるために、随煩悩について学びます。
我癡・我慢・我見・我愛の4大執着心
随煩悩
貪・瞋・癡・慢・疑・見の六つの根本煩悩から派生して起きる種々の煩悩を随煩悩といいます。
また根本煩悩から生じる、我癡・我慢・我見・我愛は、4大苦になると言われています。
我癡・・・・我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心
自分を知ろうとしない(無明)。
我慢・・・・強い自己意識から生じる慢心のこと。 うぬぼれ。自分が、自分が、自分がの意識、
常に比較し自分が優れていると主張する、
我見・・・・我執ともいい、偏見に満ちた物の見方、意見。
我愛・・・・貪ること。もっと愛してくれ、五欲の対象である万の物を必要以上に求める心。
随惑。
小随煩悩の忿等の十と、中随煩悩の二、大随煩悩は八。三郡に分類されます。

小随煩悩
小随煩悩は第六識と相応します。十の随煩悩と相応して働きますが、各別起(かくべつき)といわれ各々、別々に働くといわれています。
『忿(ふん)』怒りの爆発のこと。いかり。
根本煩悩は「瞋」です。
『恨(こん)』 うらみ。恨みのこと。「心でくすぶり続けているだけ。「陰湿」「抑圧」によって起こる。根本煩悩は「瞋」です。
『覆(ふく)』自分の悪を覆い隠すこと。 ごまかし。
根本煩悩は「貪・むさぼり」「癡・おろかさ」です。
『悩(のう)』悩むこと。悩ませ悩むこと。どうにもならないことを考えること。
根本煩悩は「瞋」です。
『嫉(しつ)』 嫉妬すること。ねたみ。
根本煩悩は「瞋」です。
『慳(けん)』 物惜しみすること。けち根性。
根本煩悩は「貪・むさぼり」です。
『誑(おう)』 だますこと。相手の心を乱し、たぶらかすこと。ありのままの自分を妨げ、実物以上の自分を見せびらかそうとすること。
根本煩悩は「貪」「癡」です。
『諂(てん)』へつらい。相手を自分のほうに向けさせようとして、心にも無いことを言ったりしたりすること。
根本煩悩は「貪」「癡」です。
『害(がい)』人の哀しみが分からないこと。→人の心が分からない。傷つけること。
根本煩悩は「瞋」です。
『憍(きょう)』 おごり。自分をおごり高ぶること。「憍」と「慢」はよく似ているが、「慢」は他人と自分を比較して高慢になることで、「憍」は他との比較の意識は少なく、自分を自慢し思い上がること。
根本煩悩は「貪(むさぼり)」です。
大随煩悩
大随煩悩は、「染心(ぜんしん)』不善、悪心、有覆無記に働く心作用のこと。八つに分類される。
「悼挙等の八は染心(ぜんしん)に遍(へん)せる故に大随煩悩(だいずいぼんのう)と名なづく」といわれます。「自ら倶生(くしょう)すること得れば、但だ染(ぜん)に皆な遍じて倶生することを得るが故に。小と名づくべからず。染に皆、遍するが故に中と名づくべからず。・・・故に八を大と名づく。」
大随煩悩、大随惑ともいわれますが、「遍染心(へんぜんしん)」といわれ、
・『掉挙(じょうこ)』
・『惛沈(こんじん)』
・『不信(ふしん)』
・『懈怠(けだい)』
・『放逸(ほういつ)』
・『失念(しつねん)』
・『散乱(さんらん)』
・『不正知(ふしょうち)』
の八つがあげられています。七識に働くのです。六識と末那識をくわえた七識になります。
末那識は染汚識(ぜんましき)ともいわれますし、有覆無記(うぶくむき)といわれます。
有覆ですから汚れです。四の煩悩(我執)に覆われているからです。
「染」とは不善と有覆無記との両方を含みます。
末那識と働く時には有覆無記として働くのです。我意によって知らず知らずの内に人を汚していきます。
自と他をはっきりと分別して、自の得を選ぶといわれています。
(「慧」の心所で簡択(けんじゃく)「恒審思量」(ごうしんしりょう)といわれ、恒(つね)に審(つまび)らかに自分を思い量(はか)っているのです。
この心は、心の深層に微細にですから気づくことが難しいものです。しかも激しく働きます。
小・中随煩悩は表層に働きますから認識できるのです。
見えるもの(認識されるもの)は何とかなりますが、見えない(認識されない)大随煩悩は教えに出遇えない限り自覚することはないといっていいでしょう。
末那識は外には働きません。阿頼耶識の見分を対象としていますから、いのちを自分のものと執着を起こし他を捨てているのです。
『掉挙〔じょうこ〕』とは、こころのたかぶりのこと。のぼせ。掉はふり上げる、ふりうごかすという意味があり、挙は高く持ち上げるということです。「頭にきた」。内面的に平静な状態を失う。
『惛沈〔こんぢん〕』とは、こころが沈んでしまうこと。おちこみ。内面的に平静な状態を失う。
『不信(ふしん)』とは、まごころのなさ。不信感を抱くこと。相互の関係は完全に遮断される。
『懈怠(けだい)』とは、おこたり。善い事、為すことを怠けていることです。『積極的』
『放逸(ほういつ)』とは、いいかげんさ。善悪の判断も行動もだらしないこと。『消極的』
『失念〔しつねん)』とは、ものわすれ。念ずることを失っていること。仏陀の教えや真理への志向を忘れること。命を大事にしていない ⇔『正念〔しょうねん)』
『散乱〔さんらん〕』とは、気がちっていること。心が定まらないこと。対象への移り気があり、落ち着きの無い状態。 内面的に平静な状態を失う。
『不正知(ふしょうち)』とは、正しいことを知らないこと。誰にでも分かるはずの道理が分からないこと。「無常」「無我」あるいは「空」の自己が会得できないこと。
「不正知」の自覚は、「正知」を得ることのみ。正知・正見を得れば、煩悩はすべて崩れる。『特に分別起の煩悩』正知・正見が得られないから、我見・辺見・邪見などが我が物顔に活動します。
「煩い悩む」ことは、悪ではありません。
自分の煩悩を自覚し、己への省察を深めていくことが大事なのです。
中随煩悩
「中随煩悩」は、『無慚〔むざん〕』『無愧〔むき〕』の二つがあります。
『無慚』『無愧』は、自分を振り返り、省みることを忘れた心所です。
「遍不善」(へんふぜん)といわれ、不善の働きには必ずみられるといいます。
いわゆる眼・耳・鼻・舌・身・意の心、六識と共に働きます。
『無慚(むざん〕』とは、内的無反省。真理に対しても良心に対しての羞恥心がないこと。 ⇔「慚」内面的な羞恥心
『無愧(むき〕』とは、対他的無反省。世間体も人のことも気にしない心作用のこと。
底に自我中心・利己性があり、己の汚れを自覚しない。⇔「愧」世間をはばかり、人目を恥じる。
恥とは、自分を省みること。
まとめ
「人の心、もとより善悪なし。善悪は縁に随っておこる(道元禅師)」
随煩悩について学んできました。因果必然。良い縁になるように、自分を磨くしかできません。自分を磨くことが悪縁を遠ざけます。それでも悪縁はやってきます。すべて結果からいまを作る逆算で、最小限にする努力とその成果は、台所仕事、お風呂、トイレの使い方、ライフプランにも現れます。
お金のことをいうと、マインドフルネスとは逆方向のように考える人がいます。なぜ強盗殺人が起こるのでしょう。お金は大切です。ただ異様な執着はお金に限らず避けることです。逆算して100年ライフを緩やかに、しかも豊かに生きるために「ライフプラン」を逆算で計算しましょう。















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