1秒でマインドフルネス、全部教えます「お粥さんプロジェクト」

お粥さんプロジェクト マインドフルネス
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Naoman-Minoru
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こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaoman-Minoruです。

マインドフルネスっていろんな解釈を耳に、目にします。
「あるがまま」というのもそうですね。
けれど「あるがまま」は難解で勘違いしやすい言い回しです。
マインドフルネスは、ひとことで言い表すと「なりきる」ことです。
どういうことでしょう。

いま、ここ、この瞬間の目の前の「対象」になりきることです。
人生とは、対象になりきることの連続です。

つまり自分は、いないことになります。だから「無我」というわけです。
意識の上で自分がいたら、なりきれないですよね。
でも身体は対象になりきるために必要です。
炊事するには身体がないと具体的に行動できないので身体は必要です。

だから「炊事する意味なんかあるのか」と考えている自分は、全くもって「どうでもいいから早くしろ」と言われる始末なのです。

マインドフルネス ライフスキル
アサーティブネス ライフプラン&ライフシフト

マインドフルネスとは「なりきる」こと。

マインドフルネスとはなりきること。

いまここ、この瞬間。対峙していることになりきることです。

炊事しているなら炊事になりきる。
掃除しているなら掃除そのものになりきる。
勉強しているなら勉強になりきる。
運動しているなら運動そのものになりきります。

つまり没頭(フロー)です。

諸行無常。人は移り変わるもの。ひとときとして同じ自分はありません。
一瞬、一瞬に没頭するのは簡単ではありません。
マインドフルネス瞑想は、そのトレーニングです。

なぜ、マインドフルネスになれるかのか、なぜなりきれるのか

理由は簡単、子どもの心になれるからです。

子どもには2種類のタイプがあります。
自由で無邪気な子どもと従順な子どもです。

本来は自由で無邪気な子どもが子どものすがたです。
しかし、養育の過程で、親が厳しいと、子どもは親の顔色で見て育つので、従順な子どもに育っていきます。
親にも厳格な親と保護的な親がいるので、子どもの育ち方に影響します。

自由で無邪気な子どもには、執着が強くならない傾向があり、従順な子どもは依存的で執着が強くなる傾向があります。いつも否定され、叱られ、ネガティブなことを言われ続けて、安心できる関係が築けず、愛着が傷ついている。しかも感情さえ否定され、生き続けるために、顔色伺ってばかりの暮らしを続けたら、見せかけの従順さはテクニックとして身につける代わりに、抑圧した怒りが本心に渦巻いている。
見せかけの人の良さの裏側で火のように怒っている自分が、過去と未来に生きているので、いか、ここ、この瞬間、決して休まることのない自分は何事にも没頭できないのです。

マインドフルネスはなりきることですが、心ここにあらずだとなりきれません。
だからなりきれないからといって否定しない。
マインドフルネスは「ねばならない」とは決して言わないのです。
決して価値判断をしないのがマインドフルネスです。

お粥さんで自然にマインドフルネスを体得する

地球は川のような存在

何事もそうですが、お粥さんを作るのは簡単そうで、奥が深い。
つまり美味しいお粥さんをつくるとは、お粥作りという宇宙の旅であって、失敗を重ねることです。

「ねばならない」から離れて、失敗を楽しむことを通じて没頭することを繰り返す。
毎回の食事の準備を通して自然にマインドフルネスを体得する。
コンセプトは瞑想と同じだけど、取り組みやすいのです。

お粥さんプロジェクトは、マインドフルネスな自分作りを応援して、ライフプランの没頭できる体質にします。

執着とのつきあい方をお粥でトレーニング

お粥さん食堂

執着は、変化しないことを求めがちですが、そもそも執着することは「傲慢な自分」に見合った勲章が欲しいと言ってるようなもので、道理に適っていないのです。

ひと時も同じでないのだから、今まで以上の誠実さで、熱意で、ひとときを大切に扱うだけです。

道元禅師は「典座教訓」に於いて、『すべて食事を調理し支度するに際しては、凡夫の見識でものを見てはならない。いい加減な心情でことを考えてはならない。わずか一本の草を手にとるような仕事であっても、そこに仏道実現の場を顕現させ、一微塵ほどもない狭い仕事場においても偉大な釈尊の法を説き続けなさい、古の典座達よりもっと清らかな食事を修行僧に供養し、先人ん達よりさらにこまやかな心づかいをもって、仕事にあたってほしい。』と説いています。

マインドフルネスをルーティンワークにする

なりきることをルーティンワークにする方法です。

朝、起きたら、まず行動する。
できるだけ生産的なことがおすすめです。

朝のリズムがいいテンポになれば、一日が心地良く流れます。
いい流れをつくることが、没頭(フロー)をさらに深めます。

禅寺の一日は朝の3時半に始まります。典座は1時半には起床します。

献立は基本すべて典座自身で作りますが、庫裡(台所)、住職・家族の居間にて相談して、前日の昼食の後にレシピのプランを怠ることはありません。
どんなお粥を作るか、材料、味付け、数量を決めます。決定し終われば、それを書いて住持(住職)の部屋や修行僧のいる部屋などの掲示板に貼り出します。
準備が終わると、明日の朝のお粥の準備にとりかかります。

お米をといだりおかずを調えるのは、典座自身が手を下し、注意深く細かな点まで気を配り、心を込めて行います。一瞬といえどもおろそかにせず、なげやりにしてひとつのことはよく注意し、気をつけます。他のひとつのことには注意を怠ってはならない。典座の職責を全うすることは、大海のように広大で深い功徳を積むことであり、大海も一滴一滴の集積なのだから、ほんのわずかなことでも他人にまかせてはいけないと、道元禅師は説きます。

また山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほどの土が積もり積もってなったものに他ならないのだから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み上げなかればならない。
苦い、酢い、甘い、辛い、塩辛い、淡いの六つの味が程よく調っておらず、あっさりとして柔らか、きれいでけがれのない法に叶った調理がなされている、料理の三徳が備わっていないのでは典座が修行僧たちに食事を供養したことにならないと言っています。
気を緩めることがなければ自ずと三徳は十分に行き届き、六味もすべて調い備わってくるとしています。

朝食のお粥でさえ、このように、注意深く、準備するのを日課にしていることを思えば、病床の確保を放置した挙句、救急車で搬送中に死亡させるというのは、怠慢の誹りを受けても仕方がないといえます。

その背景には諸行無常、諸法無我(しょほうむが)一切皆苦(いっさいかいく)、人生の真理があり、一瞬でも気を緩めると大事になるという心構えがあります。

一切皆苦(いっさいかいく)」・・・・人生は思い通りにならない
諸行無常(しょぎょうむじょう)」・・・・すべてはうつり変わるもの
諸法無我(しょほうむが)」・・・・すべては繋がりの中で変化している
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」・・・・・死んだ後の世界。静かで何もない。

すべてはつながりの中で変化しているので、自分が思い通りにしょうとしてもできなくなります。
そこで執着が生まれてしまい、暮らしは複雑なものに向かいます。

これをリセットするために、マインドフルネスな状態、つまり平常心に戻す時間を持つことが必要になります。なのでマインドフルネスを「あるがままの状態」と翻訳する人がでてきます。却って難しく感じるのではないでしょうか?

その実体は「なりきる」ことです。
なりきる方法は朝、起きたらまず行動で没頭する。

お粥さんで体感する「Less is More」の醍醐味

お粥さん

一日のはじまりを「お粥さん」になりきれば、複雑な人生をシンプルに変換できます。
「お粥さん」は食をミニマリズムにしてくれます。

ミニマリズムとは、「Less is More」という考え方の追求です。
「少ないほど豊かになる」完成度を追求するために、持つのではなく、むしろ必要最小限まで省略する表現スタイル。「最小限主義」ともミニマリスムとも表記される行動様式です。

お粥さんのおかずに仰々しいものは食べづらくとても合いません。梅干しとかお新香などが食べやすくなります。食の「Less is More」です。

Less is More

お粥さんになりきれば人生は永遠になる

お粥さんは、托鉢で集めたお米が材料なので、お米の品質が不揃いなので、普通に炊くには炊き方が大変難しいのです。そこでお粥さんにするのですが、それにしても難しい。雲水さんに行き渡るように十分な量にすることも大切です。

さまざまな観点から「お粥さん」行き着いたわけですが、智慧の結晶と言ってもいいでしょう。

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とは、死んだ後の世界で、静かで何もない。ことを言いますが、死とは、身体の死だけでなく、ゴールあるいは究極と解釈していいでしょう。

お粥さんは、飢えを忍び、健康を考え、素材を考え抜いた、食に関する様々な問題を解決した究極の料理のひとつです。その解決方法は、最高の素材を使う一流料亭とは、全く違うプロセスを辿ります。どちらがいいとかではなく、与えられた条件が違うのです。

人生はジェットコスースター、山あり谷ありの「諸行無常(しょぎょうむじょう)」です。すべては繋がりの中で変化する「諸法無我(しょほうむが)」だから、変化を愉しむのが人生ではないでしょうか。お粥さんはそれを食で体感できる素敵なご馳走です。

一日の朝は、食から始まります。
食を通して一日のはじまりに人生の永遠を感じられるのは素敵なことではありませんか。

食は一日に三度、あるいは二度がルーティンワークになります。

ルーティンワークとしてのお粥さん

典座とお粥さん

持鉢

典座とは禅宗寺院の役職の一つ。
禅宗寺院で修行僧の食事、仏や祖師への供膳を司ります。
典座のあり方は現代のすべてのマネジメントする立場の人の心に通じるので心したいものです。
曹洞宗の開祖、道元禅師は、食と法は一体であると食にこだわりを示れました。
典座のあり方として「老心」つまり親心に言及されています。
典座には親がひとりの子を思い続けて片時も忘れない心で食事を作る思いが欠かせない。

自分が熱さ寒さを忘れ子供の熱さ寒さを庇い守ってやる。これこそが親の深い心だと説きます。

釈尊はご自分の寿命を縮めて私たちにその恩恵を分け施してくれた。釈尊の心とはなにか、他でもない父母の心を私たちに垂れてくださっただけである。なにひとつ見返りとしての果報を求めたものでもなく、富を求める心もなかった。・・・と説いておられます。

道元禅師は、典座が水加減を点検する時、穀物を扱う時、すべて親が子供を養う時のように、修行僧を思い、慈しみ深くねんごろな心を持つべきものであると説かれます。
お粥の心、親心です。
国難といえる有事にあって、すべてのマネジャーに典座の心が問われています。
自分には道元禅師の仰る「老心」が抜け落ちているとしか思えない、この一年であったと映ります。

スティーブ・ジョブズも曹洞宗への改宗を希望した

アップルの創業者、スティーブ・ジョブズ氏がキリスト教徒から曹洞宗への改宗を希望したことは有名な逸話として知られています。事実、スティーブ・ジョブズ氏は何度も福井県の大本山永平寺を訪れています。

道元の伝えた曹洞宗の教えは、「只管打坐(しかんたざ)」 、ただひたすらに坐るという坐禅です。

修業は悟りのための手段ではなく、修行と悟りは一体のものだという「修証一如(しゅしょういちにょ)」の教えが根幹です。

曹洞宗は、中国の禅宗五家の一つであり、唐の時代の禅僧・洞山良价(とうざんりょうかい)を開祖とします。
日本における曹洞宗は、鎌倉時代初期に道元により伝えられ、臨済宗などとともに鎌倉仏教の一つに数えられています。道元の書「典座教訓」にも臨済宗の建仁寺が多く登場します。建仁寺は、道元禅師が修業したお寺です。道元禅師は宋に渡り天童山で曹洞宗の天童如浄により印可を受けました。

道元は、1228(安貞2)年に帰国し、京都に興聖寺を開きますが、比叡山から弾圧を受け、1244(寛元2)年に越前国(福井県)に下向し、永平寺を開山します。

臨済宗が鎌倉幕府や室町幕府など武家政権と結びついていたのに対して、曹洞宗・道元は中央政権に寄ることを嫌い深山幽谷に徹したのです。
その結果、「臨済将軍曹洞士民」という言葉があるように、武士の庇護を受けた臨済宗に対して、曹洞宗は道元を高祖、瑩山を太祖として仰ぎ、地方の武士や民衆に広まったのです。

大本山永平寺での安居されていた乙川弘文老師(故人)が、国際布教の為渡米され、スティーブ・ジョブズ氏と遭遇、禅の世界に導かれました。

オーナーの孤独

応量器を使ってみる

応量器

「お粥さん」、雲水さんが使う食器「応量器」は食を整え、暮らしを整える意味でも真似したいですね。

お粥さんは、まず味のベースを学ぶためにレトルトのおかゆ 永平寺 5種類10食セット (朝がゆ・玄米がゆ・そばがゆ・五穀がゆ・小豆がゆ)を購入、その後は、朝粥を中心に、自分で作るようにしています。自分で作ったお粥さんを「応量器」でいただく習慣もすっかり日常になりました。

おかゆ 永平寺 5種類10食セット (朝がゆ・玄米がゆ・そばがゆ・五穀がゆ・小豆がゆ)

なぜマインドフルネスなのか

いまここ、この瞬間、マインドフルネス(=なりきる)ことの尊さを人生も糧にしていただきたいからです。なりきれば、いまここにないマインドトーク、マインドワンダリング(雑念)に人生を奪われずに済むからです。まとめマインドフルネスとは、「なりきる」ことです。

「なりきる」とは対象になりきること。

たとえばいまここの、この瞬間、朝食の準備をしているなら朝食の準備になりまることです。つまり没頭することです。食は一日に三度、あるいは二度がルーティンワークになります。

飽食の時代、昨今の食生活を省みながら、傷ついた自分を大事にする意味でも、気配り、心遣いが行き届いたルーティンで食事を調えます

調える時間を通して、マインドフルネスをルーティンに取り込み、暮らし全般を少しずつ、心地よいものに仕上げていきます。

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