「三十七菩堤分法」という言葉をお聞きになったことはありますか?
「三十七菩堤分法」は、お釈迦様が入滅される前に、「重閣講堂」に、たびたび弟子を集めて教えを説き始めます。
そして『三十七菩堤分法」をよく実践せよ。それが世の人々の利益と安泰に役立つのだ』と説示されました。
「三十七菩堤分法」とは、①四念処(四念住)②四正断③四神足④五根⑤五力⑥七覚支⑦八正道以上、七科総計37種類の修行方法です。
重要な教えが入っていますが、「三十七菩堤分法」の中にマインドフルネス瞑想はここから生じています。
マインドフルネスというと、説教の匂いを感じる方がいますが、それは違います。
キスの味がいままで以上に感じられるようになるのがマインドフルネスです。
人生がこんなにも楽しかったのかと体感できるのがマインドフルネスです。
では、ようこそ、「三十七菩堤分法」のマインドフルネスの世界へ
感情的な行動は心理現象。マインドフルネスに戻って平常心。
感情は人生に潤いを与えてくれます。
感情がなければなんとつまらないことになるでしょう。
しかし、感情と感情的になることは全然違います。
感情的とは、感情に溺れた状態で分別がつかない状態です。
思考を使って行動しないと苦痛は増すだけで何の解決にもなりません。
感情的な状態とは単なる「心理現象」でしかありません。
自分の心の乱れです。
空が曇った。雨が一滴降ってきた。
その程度のことななので、気にせず、平常心に戻しましょう。
マインドトーク
平常心に戻るとき、マインドトークに注意しましょう。
感情的な表情や思考あるいは行動をしたとき、マインドトークしていないか、気に留めます。
自分と自分がひとりごとで、マインドトークしている可能性が高いからです。
マインドトークをしていると、どんどん自分の世界に入り込んで、相手の言ってることや周囲の言動から遠のいて、相手や周囲から見ると、「この人何を怒っているの?」と不思議な状況になります。
自分は真剣ですが、周りからは「お笑い」です。
「三十七菩堤分法」でマインドフルネスを実践
ブッダが余命三ヶ月になったとき、「重閣講堂」に、たびたび弟子を集めて教えを説き始めます。
そして『「三十七菩堤分法」をよく実践せよ。それが世の人々の利益と安泰に役立つのだ』と語ります。
ここだけ聞くと修行して人の役に立ちなさいと教えているようですが、そうではありません。
修行の目的は自分の「煩悩」を消し去り、いつでも涅槃に入れるようにすることにあるからです。
「三十七菩堤分法」とは、①四念処(四念住)②四正断③四神足④五根⑤五力⑥七覚支⑦八正道以上、七科総計37種類の修行方法です。
この「七科総計37種類の修行」が「七歩(=七科)歩いて唯我独尊」のことだろうと推察できます。
つまりお釈迦様が誕生したときに、七歩歩いて「唯我独尊」と言ったと伝わっていることです。
唯我独尊
唯我独尊とは、「自分がいちばんエラい」と解釈している方もいますが、ブッダは、自惚れ、自己卑下を厳しく否定されていますので、間違いであることは明らかです。
唯我独尊とは、「人のいのちは一つしかない、一回限りの人生を大切に生きなさい」
すなわち、七歩歩いてとは、「三十七菩堤分法」をよく実践することで、一回限りの人生を大切に生きることができると説かれたのです。
仏教の修行の目的は「煩悩」を消し去るのが目的であり、他者を助けるのが目的ではありません。
「煩悩」を消し去ることで、結果的に他者を助けることになるのです。
修行する姿が結果的に他者を感化して、煩悩を抱えて苦しむ人の利益と安泰に役立つのだという慈悲の心につながります。
「原因=結果」つまり因果すなわち「縁起」です。
諸行無常にして一切皆苦、人生はエンドレスにワンダフルなジェットコースター
人は自分が知らない「縁起」を受けて変わり続けるだけでなく、デコボコ道を行くが如くです。
『「諸行無常」(=人生は変わり続ける)「一切皆苦」(=デコボコ道)だから、過去はなく、未来もきていない(=自分の一瞬)をおもてなしでエンドレスにワンダフル』が合言葉です。
なんという面白いものでしょう!ジェットコースターに乗っているような面白さです。
「エンドレスにワンダフル」の意味
マインドフルネス研修では、「一瞬のおもてなしで、エンドレスにワンダフル」が合言葉です。
どんな意味でしょう。
人生はデコボコ道だけど、ライフデザインを明確にして、ライフプランを設計して、ライフプランを目標に生きる姿があれば、自身がいなくなっても、家族にスピリチュアルな体験の残像を刻むことができます。
スピリチュアルな体験の残像はすばらいい記憶となって受け継ぐ人の勇気になります。
勇気は語り継がれ、模擬され続けてエンドレスにワンダフルな体験になり続けます。
マインドフルネスは、個人の体験として、はじまりますが、ライフプランにライフデザインにして、落としこむことで、「諸行無常」といわれる人生という変わり続ける、「一切皆苦」の曲がりくねったデコボコ道を素敵なあなたの道に変えることができます。
マインドフルネス瞑想 1.身念処(身念住)
マインドフルネス瞑想。七歩歩いて、唯我独尊。
「身念処(身念住)」とは、わが身は不浄であると観察することです、。
身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察します。
身念処(身念住)についてはこんな話があります。
ある男が美しい女性に出会います。
女性を想う気持ちを伝えたところ、女性はよろこぶこともなく、「この肌の下には、醜い身体が隠れている。血みどろの肉塊でしかありません。内臓の器官はどれも非常に汚らしいものです。
さらに肉をそぎ落とすと、不気味な骸骨があらわれてきます。
この肉体から排出されるものに、何一つとして美しく清浄なものはありません。
なのに、あなたは、私の本当の姿を見ることもなしに、肉体の不浄性を直視せず、美化して、愛しいという。」
たしかに言われてみればその通りです。
では、それを知ってどうすれば良いのでしょう。
間違った捉え方(思い込み)が煩悩の元なのです。
よく観察して、真実を知って間違った思い込みをリセットして、正しい見方に矯正して煩悩を消し去るのです。
煩悩を消し去る訓練プログラム「四念処(四念住)」の最初のひとつが、「身念処(身念住)」です。「身念処(身念住)」は身体を観察するプログラムです。
ただ誰かから聞いたからといって、それを信じるな。
何代も受け継がれたからといって、その伝統を信じるな。
たくさんの人の間で語られ、噂になったからといって、それを信じるな。
あなたが所属する宗教の聖典に書かれているからといって、それを信じるな。
ただ貴方の先生や先輩の権威だからといって、それを信じるな。
しかし、観察と分析を行なった上で道理に合っていて、すべての者の利益になると貴方がわかったならば、それを信じなさい。
ブッダ最期のお言葉「自灯明・法灯明」につながるトレーニングです。
マインドフルネス瞑想 2.受念処
マインドフルネス瞑想。七歩歩いて、唯我独尊。
一歩目のトレーニングの二は「受念処」です。
感受とは、感受性という表現をします・
心で感じる能力
感受は苦であると観察する。
一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、これら感受作用について観察する。
有名な「一切皆苦」のことです。
「一切皆苦」・・・・人生は思い通りにならない
まず、お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いています。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味です。この「苦」には、「四苦八苦」と呼ばれる八つの苦しみが挙げられます。
こうして読んでいくと、だんだん暗い気持ちになります。
決定的な苦は、死・別れ・老い・病ですが、「受念処」はトレーニングプログラムです。
人生はつらいものだと思うのが煩悩。目的は正しく感じて煩悩を消す。
「諸行無常」ですべては移り変わるとも言われています。何事も川を流れていくように変わっていく。
死・別れ・老い・病も留まることなく過ぎていく。
アメリカ仏教では、ポジティブに感じて「一切皆苦」を「人生はでこぼこと道」と解釈。
自分を傍観者にせず、主体性を大切にしました。
「働かされている」と思う人が多い日本と違い、自らの意志で「働いている」と思うアメリカ人。違いの根源は、ただただ自分にある。
自分に目的がないか、あるかの違い。
これからの人生100年時代は、後者の時代です。
一歩目のニ「受念処」です。
マインドフルネス瞑想 3.心念処 (しんねんじょ)
マインドフルネス瞑想。七歩歩いて、唯我独尊。
一歩目のトレーニングの三は「心念処 (しんねんじょ)」です。
心念処 (心念住)
「心について(心は無常)」をみる(気づく)瞑想です。
なぜこんな瞑想をするかというと、「原因=結果」ですが、「結果=原因』と考えるのがブッダ流だからです。
たとえばカップルが盛大な結婚式をしています。早ければ成田離婚、遅くとも5年もすれば不機嫌な二人になります。
稀に死ぬまで仲のいいカップルがいます。
なんで離婚したの? 「原因=結果」ですが、「結果=原因』だと知っていたら、死ぬまで仲のいいカップルになれます。
心は無常だと気づいていたら、無常にならなくて済むこともあるというのが、ブッダが伝えたいことです。
仏教はエンドレスにワンダフルでしょう?
心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察します。
つまり心は無常であることを観察します。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私の心が執着している、
私は心が名誉を求めている。
私は心に怒りがある、
私は心に妄想がある、
私は心に怯えがある。
その他、心の状態について観察します。
マインドフルネス瞑想 4.法念処(法念住)
マインドフルネス瞑想。七歩歩いて、唯我独尊。
一歩の四。は「法念処(法念住)」です。
諸法は無我であることを観察します。
諸法とは、すべてのことですが、私たちはその中に「自分」という存在も含まれていると考えがちです。
この世には、「私が存在している」と確信しています。
しかし、それは錯覚だといいます。
この世に自分などいないのです。私は煩悩に基づいて想像している。
煩悩とは、心身を乱れさせる心の汚れです。
つまり執着です。(これを掘り下げ、深めると「阿頼耶識=深層心」に行き着きます)
目の前にりんごがあるとします。
①りんごがあることを認識する
②自分の中に映像があり、言葉(りんご)を使い、確定します。
③執着が生まれる
因果関係をのプロセスを観察します。
言葉は限界と束縛を生みます。
言葉で迷うから言葉で正していきます。
頭で理解するのではなく、体で理解する。
つまり瞑想を繰り返しなりきる(深層心に成育させる)まで理解します。
諸法無我
諸法無我―すべては繋がりの中で変化している
全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。
自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。
世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。
自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っています。
こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係の中で”生かされている”存在であると気がつきます。
「法念処」は諸法無我に気づくトレーニングです。
「気づくトレーニング」とは、実感することで体得する=なりきることです。
最初の一歩、四念処(四念住)を実感するのが、
1.身念処(身念住)
2.受念処(受念住)
3.心念処(心念住)
4.法念処(法念住)
です。
四念処(四念住)は、ひとことで言うなら、生まれつきのように持っている間違った見方、考え方をリセットして正しい見方に矯正するのを目的としたトレーニングです。
四念処(四念住)は最初の一歩にすぎませんが、放置しておくと心身がマインドトーク(雑念)だらけになり、心身が汚れまくった状態になり、なにひとつ集中できなくなります。
集中できなくなっていることさえ気がつかなくなるほど雑念に埋め尽くされます。
まとめ
ほとんどの場合、人は間違ったことはしていません。
間違ったように見えてもそうしなければならなかった理由があったのです。
誤った戦略、戦術、選択に見えても完全に遂行していると捉えましょう。
しかしそれが効果的でない場合があります。
やがて気づきが訪れます。
それに気づくタイミングが遅いように思える場合も、その人にとってはまだ必要だったのです。
気づくことは新たな挑戦のチャンスです。
うまくいっている人から学習するようにします。
そうすれば、もっと素晴しいものにすることができます。
感情的にならず、時にコンピュータのように冷静に対処する力は信頼感になります。
ストレスは心と身体が相互依存にある証明です。
どちらか一方に影響を与えないでもう一方を変える事はできない関係にあります。
考え方が変われば行動も変わります。行動が変わると身体が変わります。
行動が変われば考えや感情も変わります。
ここにもPDCAは働いています。
*マネジメント力が向上します。
コメント