こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaoman-Minoruです。
唯識が難解である最大の理由は、モノとの関係ではないでしょうか。
モノが実体としてあるのに、ないかのように説明されるので、チンプンカンプン意味がまったく判らないという声を聞きます。
でも、それを簡単に伝えているのが「ニッパーくん」です。岡山県倉敷にある古物商のお店にはニッパーくんがところ狭しと並んで八識のパワーを見せつけています。
ここでは、「唯識」のもっとも難解な部分を出来る限りわかりやすく伝えるように、チャレンジします。
唯識の八識
唯識では八識のみが「唯(ただ)ある」といいます。
「ただある」とは、私たちはわかりやすくするために、言葉で分類しますが、実際には言葉以前にただある状態にあります。
八識とは、以下の8つの識です。
- 眼識(げんしき、視覚)
- 耳識(にしき、聴覚)
- 鼻識(びしき、嗅覚)
- 舌識(ぜつしき、味覚)
- 身識(しんしき、触覚など)
これらを総称して「前五識」と呼びます。 - 意識、六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあります。
前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)といいます。 - 末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識があります。
寝てもさめても自分に執着し続ける心と位置づけされています。
熟睡中は意識の作用は停止。その間も末那識は活動し、自己に執着するといいます。 - さらにその下に阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)という根本の識があります。
この阿頼耶識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」と呼ぶものを生み出しています。
唯識論では、自己と自己を取り巻く自然界の全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめたもの、変現したもの、とします。
根本心「阿頼耶識」
唯識では、一切の現象を起こさせる可能性、能力を根本心である「阿頼耶識」に貯蔵していると考えます。
阿頼耶(アラヤ)とは蔵の意味です。
これを”種子(しゅうじ)“といいますが、阿頼耶識の場合、あるとあらゆる存在を生じる種子を有していることから「一切種子識」といいます。
植物の種子と同じく、種子から一切諸法の万物が生起し、その顕現した現象は直ちに阿頼耶識に影響を及ぼし、新たな種子となると説きます。
種子の多くは、感情・感覚・意識が言葉とセットになって蓄えられていると考えられます。
つまり唯識論によれば、我々の見ている世界の全てはこの”種子”により発生しているとされ、それらの”種子”を永遠に蓄え続けるために阿頼耶(アラヤ=蔵)の識、すなわち「蔵の識」と呼んでいます。
一切種子識である阿頼耶には良い種子もあれば悪い種子もあります。
阿頼耶は末那とも相互依存の関係にあるので、あり方で末那(=執着)を育ててしまう可能性も秘めています。
あり方のマズい代表例が「認知の歪み」です。
いまはなき飼い主の声を聴くニッパーのお話
犬のロゴで有名なビクター、犬の側には小さく『His Master’s Voice』(彼のご主人の声)と書かれています。もうそれだけで、飼い主さんの声を聴いていることが分かりますよね。
犬のマークは、1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって描かれた絵が由来となっています。犬の名前は「ニッパー」といい、非常に賢いフォックス・テリアです。
絵を描いたフランシス・バラウドの兄さんの飼い犬でしたが、お兄さんが亡くなってしまったため、弟のフランシスがニッパーを引き取って育てることにしました。
あるとき、たまたま家にあった蓄音器で、お兄さんの声を聞かせたところ、ニッパーは蓄音器のラッパ(スピーカー)の前で耳を傾け、まるで懐かしい主人の声に聞き入っているようでした。
「いまここ、この瞬間」のニッパーの姿に心を打たれたフランシスは、「いまここ、この瞬間」の出来事を逃さないように筆を取って一枚の絵を描き上げました。
ニッパーは、自分を可愛がってくれた飼い主の懐かしい声がしたので、愛着から側に行きたいと思ったことでしょう。「いまここ、この瞬間」の出来事です。
そのときの蓄音器は録音・再生ができるシリンダー式でしたが、その後、円盤式に描き替えられています。そして『His Master’s Voice』(彼のご主人の声)とタイトルを付けたのです。
いま、ここ、この瞬間、ロックを聴くニッパー
では、ここにレコードがあるとします。現代社会では、インターネットによって音源があるだけの環境が日常になっていて極めて唯識的暮らしに近づいています。
レコードの場合、iTunesによって取り込まれた「唯、それ」ではなく、レコードの音源は「それはなんという曲」と追求することで、題名がわかり「ハートブレイク・ホテル」という言葉(タイトル)を付与することで「ハートブレイク・ホテル」になります。
タイトルによって、つまり言葉によって「もの」の変造されるのです。
ところが「エルヴィス・プレスリーの魂」を感じる人もいれば、「ハートブレイク・ホテル」という曲だと考える人もいます。若い世代には「それ」が聴こえるだけかも知れません。
つまり言葉と頭に浮かんだ映像は全く違うものなのです。
その全く違う二つ(言葉と映像)が結合されることで、自分の外界に「エルヴィス・プレスリーの歌っている曲」あるいは「誰かが歌っているそれ」が形成されるのです。
なので、ひとによっては「それが聴こえてきたので、身体中に力がみなぎった」という表現にもなるでしょう。
ニッパーくんの絵が語る八識
実際、アメリカでは(エルヴィス・プレスリーが無名のときに)深夜にラジオからそれが流れてきて気がつけば、車を走らせていたという女性が少なくなかったのです。
この仕組みは私たちが生きていく上でとても便利で必要なものですが、人間が発明したものです。
しかし、この仕組みを内蔵して人は誕生したものではなく、保護者によって後天的に後付けされた機能であることに疑いを持つ人はいないでしょう。
音楽を聴いて歌う?犬もいますが、彼らはそれを「エルヴィス・プレスリーの歌っている曲」とは理解しないでしょう。理解するにふさわしい情報も仕組みも彼らにはないからです。
しかし、ニッパーくんの反応からはっきり見て取れるのは八識が機能している点です。
つまりニッパーくんの外の世界からご主人の声が聴こえるのではなく、ニッパーくんの八識から声が聴こえるのです。
飼い主の声が止まると、また聴きたいとも思わないし、忘れているけど刺激を受けるとまた同じような反応をします。この点が重要なのです。
唯識のこだわりの核心は「執着」
唯識が、モノの捉え方にこだわっているのは、モノが実在すると思い込むことで「執着」が生まれていることへの警鐘を鳴らしているからです。問題の核心は「執着」です。
言葉があるから実体としてありそうな錯覚に疑いを持つことなく暮らしていますが、そこになにがあるのでしょう。
モノの名前を呼び続けてみてください。そこになにがありますか?
あるいは、iPhoneのなかにある曲名を呼び続けてください。
Siriが働いて曲が演奏をはじめるかも知れませんが。
実体のない時代に生きる
「ハートブレイクホテル」は一世を風靡した曲です。
エルヴィス・プレスリー( 1935年1月8日 – 1977年8月16日)のいた時代に同世代だった人がレコード盤をターンテーブルに乗せて聴く「ハートブレイク・ホテル」と、まったくエルヴィスの知識がなくiTunesに取り込んで聴く、まったく言葉を付与しなくても聴こえてくる「それ」は同じものでしょうか?
ハートブレイク・ホテルになりきることと、自分になりきることは、どう違うのか?
実はハートブレイク・ホテルは、聴こえる人の心の内にあるのです。ターンテーブルにレコード盤を乗せた縁で聴こえたにすぎないのです。これが縁起です。
マインドフルネス実践講座では、縁起について解き明かします。
苦諦からの解放
もし言葉がなければ執着に苦悶することは起こるでしょうか?
ブッダの哲学は「四諦」からの解放にあります。
四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つです。
ただし、滅諦は苦は減らせることを教えてくれます。
道諦は、八正道によって悟りに導けると教えています。
滅諦も、道諦もひたむきな精進が必要なのでプロセスは決して楽ではありませんが、人生100年時代。マインドフルネスな過ごし方で、子から孫へと、エンドレスにワンダフルな道が開けます。
まとめ
言葉の制約と限界、さらに束縛を超えるものが音楽の素敵な一面です。
しかし音楽が媒体と言葉を使いはじめると執着にもなります。
執着の壁を乗り越えると、音楽はもっともいきいきと切実さをもって訴えかけてきます。
音楽になりきるために、難しいことはなく、ただ「それ」になるだけでいいのです。
同じことはすべてに言えます。
それがそれであるためにあらゆる「策略」も「意図」も不要なのです。
阿頼耶識をと上手につきあうために必要以上に言葉で考えないようにしたいものです。
重要なのは「実践」です。
▼人生100年時代のマインドフルネス無礼講実践講座
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