こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaoman-Minoruです。
「鬼滅の刃」が大ブームになった理由のひとつに「自己マスタリー」への希求があります。「自己マスタリー」という言葉は意識していなくても、自己マスタリーは長く激動する100年ライフの基礎のなる力だからです。
ここでは「自己マスタリー」の力となる「無分別智(むふんべつち)」と「正聞熏習(しょうもんくんじゅう)」の2つの力から「無分別智」についてお話します。
「無分別智(むふんべつち)」は、読んだ人から問題解決が進み、伸びていく「唯識」の重要課題です。
自己マスタリーを育む「無分別智」とは
「無分別智」とは、大乗仏教の根本的立場を示す重要な言葉で、無分別心(むふんべつしん、)真智(しんち)、根本智(こんぽんち)ともいいます。二分法的思考、つまり、ものごとを「白と黒」「善と悪」のように二項対立的に捉えようとする一切の思考を超える智慧を働かせることです。
自己マスタリーを育む、もうひとつの力である「正聞熏習」とは、正しい教えを伝えられる人から、繰り返し聞いて、学んで、阿頼耶識(あらやしき)にある無漏(むろ)の種子(しゅうじ)を成熟させるために、薫習していくことです。
100年ライフの原動力「自己マスタリー」とは
自己マスタリーとは、1990年代、「学習する組織」について書いた『最強組織の法則』(原題:The FIFTH DISCPLINE)の著者ピーター・センゲ(Peter M.Senge)が世界に広めた言葉です。
欧米では読んでいないビジネスマンはいないとも言われるほどのベストセラーに書かれた有名な概念で、SDGsとも深い関係があります。
「自己マスタリー」は「学習する組織」でピーター・センゲが提唱する学習する組織の5つのディシプリン(=システム思考・自己マスタリー・メンタルモデル・共有ビジョン・チーム学習)の中の一つです。
哲学のない組織、哲学のない人は通用しないと言われる時代の象徴である「自己マスタリー」を持つ人は、次の問いに明確な答えを持っている、あるいは持つ必要があると言われます。
「私は、何者か。私は、どこからやって来たのか。私は、今なぜここにいるのか。そして、私は、これからどこへ向かっているのか」
飛鳥時代~奈良時代に、奈良・興福寺を拠点にして全国に広がった「唯識」の哲学が役に立つ命題ですね。
5つのディシプリンのひとつ「自己マスタリー」を持つ人は、自分が大切にしていること、価値観や信念、動機の源泉を知り、自分の活かし方を知っています。
「もともとのいのち」との向き合い方が自分の取り組んでいる活動そのものになり、人生が持つ意味を認識し、人生を通して一貫性のあるストーリーを構築することができます。ただ生きているだけの人々と一線を画したエンドレスにワンダフルな100年ライフの姿です。
「無分別智」ふたつの働き
繰り返しますが「私は、何者か。私は、どこからやって来たのか。私は、今なぜここにいるのか。そして、私は、これからどこへ向かっているのか」この問いこそ100年ライフを生き抜く自己マスタリーの原動力です。
「無分別智」は、この問いに答えますが、「無分別智」にはふたつの働きがあります。
ひとつは「他者に対して、源泉から湧き出た生まれたての清流のように真に清らかな行為」をすることです。
もうひとつが、その清流が自分に跳ね返って自分の深層心、すなわち阿頼耶識の中にある種子の汚れを勢いをもって洗い流します。怒りや執着は燃える火のごときもので、灼熱の炎は周囲さえ灰にして汚していきます。源泉から湧き出た生まれたての清流はこれらをきれいに流し去ります。ただ綺麗な清流では怒りや執着は消せません。
禅の教科書「十牛図」に登場する抗う牛(本来の自分)を手懐けるような慎重さが必要です。
無分別智が教える「縁起の理」という関係
このふたつの働きは「慈悲」という言葉にふさわしいものです。
ともに「縁起」の関係にあります。
自分は施者でも受者でもなく、孤立した自分ではないダイナミックな数多くの縁によって生じ、いま・ここに生かされてあるのです。
「他者に対して、源泉から湧き出た生まれたての清流のように真に清らかな行為」をした時に気をつけたいのは、施者と受者の関係にしないことです。
自分では意識しないつもりでも、与えたことで、心の奥に、自惚れの気持ちが宿ってしまいます。親子、恋人同士の関係であっても、人に与えたという利他行(=自分の利益よりも他人の利益を優先する行のこと)によって、ついついおごりの気持ちから自我意識を強めてしまうのです。
施者と受者が、どのような関係にあっても、施者と受者も分別しない無分別智の実践が大切になります。
施者と受者を分別しない無分別智の行為には、それが何であっても「なりきる」行動によって、エゴを洗い流してくれます。たとえば掃除、料理、仕事、なんであれ、対象とひとつになりきることで「施者と受者」は消え去り、エゴの種子は慈悲の種子に変化して「喜び」になります。喜びは生きるエネルギーとして注ぐように天から舞い降りてきます。
そのとき、自分は生かされている存在だと気づき、慈悲の恩恵を受けるでしょう。施者でも受者でもなく、孤立した自分ではないダイナミックな数多くの縁によって生じ、いま・ここに生かされてある喜びを自然と体感するでしょう。
自分の体は自分の一部ではなく、体によって自分が生かされていると気づくのです。
つまり足は自分の一部ではなく、足によって自分が生かされていると気づくのです。
お分かりですね。
広大な自分が誕生した気持ちになり、根源的ないのちの向こうに、「もともとのいのち」を体感するでしょう。
まとめ
100年ライフを豊かにする自己マスタリーは、自分をさらなる高みに押し上げる原動力になります、
根源的ないのちという根から芽が出て幹になり、多くの枝葉に分かれ、ひとつの葉になります。木が森になった光景を思い浮かべてください。人は繋がっているのです。
人はなぜ他者を愛するのでしょう。他者は普遍的な存在、つまり根源的ないのちです。他者を愛することを通して、根源的ないのちを愛しているのです。つまりエネルギーを求めているのではないでしょうか。「自他」というトリックを脱して「夫が、妻が愛しいのではない。アートマンを愛するがゆえに夫が、妻が愛しいのである」という言葉と引き換えに自己執着心を清流に流してみましょう。
▼人生100年時代のマインドフルネス無礼講実践講座
コメント