見えぬけれどもあるんだよ 。見えぬものでもあるんだよ。
こんにちは、いきいきゴエスのNaoman-Minoruです。
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童謡詩人。金子みすゞさんの母ミチさんは日頃から誰にでも分け隔てなく、こんなことをテル(金子みすゞの本名)に話していたそうです。
二人はいつも手を繋いで歩き、言葉遣いも丁寧で、近所の子どもたちの羨望の的であったといいます。母と子の関係であって、目上・目下の関係ではなく、施す者・施される者ではという立場ではない。ミチさんとみすゞさん、愛着の絆で結ばれた子育てのあり方が、「無分別置」のすがたです。
ここでは、人が生きるうえで大切な「無分別置」の意味とあり方について解説します。
分別しない智慧「無分別智」
私たちが暮らす社会で、「無分別」というと「分別がない」「思慮のない」という意味であまり良い意味で使われません。分別できることが「道理、善悪をよくわきまえていること」を指すからです。
でも仏教では決していい意味ではありません。“物事を分けることによって悩みを深めてしまう”ので無分別智、つまり「分けない考え方」を説きます。実体はないのに物事の一切を束縛する「言葉」で考えないことに留意して「分けないことで得る智慧」の大切さを説いたのです。
われわれは、役に立つ・役に立たない、「し合わせ」・不幸、施す、施されるなど、全てを二項対立を言葉で考えてしまいます。そうすると“意味があるもの”“意味がないもの”というふうに分けて、“意味がないものには価値がない”という考え方が生まれます。「価値がないんだから生きてる意味がない」、自分に執着してしまいどんどん深みに入り込みます。(表面的にはやけくそになって「自分なんかどうでもいい」と投げやりになっていますが、内心では執着の炎が燃え上がっています)
苦しみを友だちにしよう
ところが心の苦しみは実際には智慧の基礎です。
その事実に目を背けて、苦しみを避けよう、抑圧しようとすればするほど、より多くの苦しみを生み出してしまい混乱は生涯続くことになります。これにストップをかけるのが、苦しみを友達とする考えです。苦しみを友だちにするなんてまっぴらゴメンと思いますよね。
では、苦しみは友だちだという方向に進むとどうなるでしょう?
まず苦しみが生まれるシステムが心に内在していることを知る必要があります。
「一切皆苦」から解放を研究してきた仏教の根本的教理は無我です。
「無分別智」の概念を打ちたてた大乗仏教の学派のひとつ「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」は、唯識は大乗仏教の中観派の「空」思想にたいする批判から生まれました。
日本には瑜伽行唯識学派の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ、法相宗として伝来しました。唯識では、深層から浄化することで、迷いから悟りに至るための方法をアプローチします。
自然の分身
私たちが生きている世界に、実在するのは、八識(表層心(顕在意識)にある①眼識、②耳識、③鼻識、④舌識、⑤身識⑥意識、そして深層心(潜在意識)にある⑦末那識、⑧阿頼耶識の唯だ心と身体があるのみと説きました。
人間は、身体と心を自分である、あるいは自分のものと誤認しているとしました。
本来、自然と一体である自分を「自然の分身」と思うところから、自我執着心が生じると説いています。自我は生きるエネルギーではあるけれど、自我から生じる執着が苦悩を作り出しているのです。
苦しみは深層心にある『すべての種子である「阿頼耶識」』を対象としている「末那識」から生まれます。「末那識」は表層心との交信によって刺激のやりとりをして表層心は阿頼耶識に沈澱します。「識」とは「蔵」のことです。
平等性智(びょうどうしょうち)
識は「我」を生じますが、「我」は生のエネルギーでもあります。雪だるま式に増幅する負のトライアングルを断ち切る方法として「無我」によって識のありようを「智」に転化させることを提唱したのです。自我執着心である末那識を転じて平等性智(=平等であると悟る智)を得る必要があると唱えたのです。
『「平等性智」とは、修行の結果悟りを開き仏になると、「八識」は「智」に転ずる。という意味です。
つまり清浄な智慧である「無分別智」の火を燃やせ。と説きます。火を燃やすことで、胎内にいるときから「生きたい」と思っている「もともとのいのち(根源的いのち)」にまとわりついた末那識(自我執着心)を焼いて焼いて焼き尽くして、心と身体を永らえるです。
仏教は約2500年という膨大な時間をかけて「自分」とは単なる思い込み、言葉の上だけにある、誤認だと大乗仏教の部派は違っても、「空」「無我」などの言葉を使って説き続けています。
全てか無か「二分法的思考」
無分別智は「二分法的思考」と深いつながりがあります。「二分法的思考」は「有(ある)か、無(ない)か」というように二分化して考えることです。
「二分法的思考」は、二分法的思考尺度、白黒思考、完璧主義ともいいます。つまり無意識にして自動的に「両極端」な答えしかできない、解釈・判断として受け取れないという認知の歪みを指します。現実には、どちらでも良いとか、曖昧なグレーな考え方もあるものですが、こういった認識が持ちづらいのが。「二分法的思考」の特徴です。
アメリカの生理学者H・P・バウディッチに1871年に提唱された法則です。
刺激の強さと反応の大きさに関する法則で、悉無律、皆無率、オール・オア・ナッシングの法則、総体および皆無の原理などとも呼ばれます。1本の神経細胞や筋細胞において、刺激の強さが一定の値以下であればまったく興奮せず、それを超えるとどれだけ刺激を強くしても興奮の大きさは一定であるという法則です。
「二分法的思考」の背景には強い不安があり、不安は自我執着心(末那識)が出所になっています。
自我執着心(末那識)は阿頼耶識を対象にしていて、末那識は顕在意識からも入り込み、また顕在意識に返します。「二分法的思考」には否定されるのが嫌で、早く結論をみたい、待てない心の弱さが見え隠れします。そのため完璧主義に走り、完全でないなら最初から手を出さない傾向が見られます。できることしかしない、結果が約束されたことしかしないとしたら、成長は限られたものになります。
あるでもなく、ないでもない。あるとないでもなく、その両方の否定でも無い。二分法的思考の否定を繰り返していけば自と他の区分はぼやけていき、そのベールの奥から動かしがたい、絶対肯定の世界が現れてくる。無分別智の智慧で焼き尽くすのです。
汚れていたものを入れていたグラスをどんなに磨いてもそのグラスで飲みたいとは思いません。そこには汚いという現実があるのではなく、きれい、汚いを分ける、絶対的な区別はなく、汚いと感じるただ識だけがあることを意味します。
瓶の中の蚤
「瓶の中の蚤」という有名な話があります。「
瓶の中の蚤」は「二分法的思考」の恐ろしさを伝えるエピソードです。
ノミは体長2ミリ程度の小さな生き物ですが、実は30センチも跳ぶことができます。
高さ20センチほどの瓶にノミを大量に入れると、ノミたちは、その瓶からはみ出すジャンプを繰り返します。ところが瓶にフタをしてしばらく置いておくと、フタの存在があることにより、ノミたちは次第にフタのところまでしかジャンプをしなくなります。当然ですよね。驚くべきことはこの先です。フタを外しても、どのノミもフタの高さまでしかジャンプをしなくなり、瓶をはみ出してジャンプするノミはいなくなってしまうというのです。この話は学校や会社などを瓶にして語られることの多い逸話ですが、「二分法的思考」の典型である完璧主義にも言えるのです。
言葉と想像が不安の元凶になっている事実
二分化法的思考は、死後の世界を心配する人にも当てはまります。
- 【自他】自分が
- 【時間】(生きているor)死んだら
- 【空間】天国か、地獄か
- 【概念】有るか、無いか
「すべては心の中にある、心を離れてものは存在しない、心の外にはものはない」ということを証明するような状態です。
人が恐れる最大の恐怖は「死」ですが、その実体はなにもないことに驚かれるでしょう。
言葉に束縛されて、想像で作り上げた世界です。生きていることは言葉と無縁です。根源的なもともとのいのちは、唯、生きたがっています。
一人一宇宙
心のなかの「感覚」と「思い」と「言葉」とによって、種々の映像が織りなされる状態を「現実」だと思い込んで暮らしていますが。実際には、自分が心の中に投影した映像にすぎません。まるで映画「マトリックス」を見ているようです。
唯識には「一人一宇宙」といって、一人ひとりが目の前に大宇宙をもっているという考えが核にあります。具体的世界と抽象的世界があり、具体的世界は心のなかにある世界、抽象的世界は言葉だけの世界です。
誰も入ることができない世界、誰も出ることができない世界を自他対立、憎しみと恨みの煩悩の世界にしてしまうのは、一人ひとりの根本心「阿頼耶識」にある澱んだ想いと言葉です。
毎日押し寄せるマインドトーク(心の雑念)を遮断して、放置すれば雪だるま式に増幅する執着の負のトライアングルを断ち切り、本来の状態に戻すのが清浄な智慧である「無分別智」で焼き尽くすことです。
自と他と行為との三つを分別せずに、現にあるもの、たとえば食事の準備、清掃など目の前にある対象になりきる(マインドフルネス)のです。「無分別智」の智慧です。
まとめ
先祖から受け継いできた「もともとのいのち」は唯、生きたがっています。「我(が)」は生のエネルギーになりますが、善悪の区別なく一切の可能性である阿頼耶識を放置すれば自我執着心になり根本苦を産み、本来自由ないのちを捉えようとします。これを取り除こうとするには、清浄な智慧である「無分別智」で焼き尽くすことです。
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