こんにちは、人生100年時代の「マインドフルネス実践講座」のコーチ、ゲンキポリタンです。
すべての物事には「因(原因)=果(結果)」という方程式で成り立っています。
求める結果を変えたいなら結果にふさわしい原因を作れば良いわけです。
ところが現実の社会では、どんなに努力しても思う結果が出せない人がたくさんいます。
良い例ではありませんが、何も悪いことをせず、人に優しく暮らしてきた老人が、「誰でもいいから殺してみたかった」という精神に異常をきたした子どもに殺される。
これをどう説明すればいいのでしょう。
「因(原因)=果(結果)」ではないと思える謎について説明します。
自分とは細胞ネットワーク?
「因(原因)=果(結果)」のお話をする前に、もう一つ重要なお話をしておきます。
無我。つまり執着心の原因になっている「自分」はこの世に存在しないというお話です。
現代人ならみんな「バカなことを言うな」と言うでしょう。それでいいんです。
しかし、次の図「観想縁起図」を見てください。
観想縁起図
「観想縁起図」でもっとも重要なのが「根源的ないのち」です。
根源的ないのちとは、生命保険でいう生命ではありません。
根源とは、ものごとのはじまり。大元という意味です。
精子と卵子。細胞ネットワーク。宇宙の果て。
宇宙の果てとは、何でしょう。宇宙がはじまった頃の宇宙です、
人は言葉を使って考えています。
宇宙がはじまった頃を想定したら、言葉を使い出したのは、まだまだ最近のことになります。
「根源的ないのち」とは
仏教では「無我(=自分はない)」といいます。
そう言われてもここに自分はいるではないかと思います。
なので「無我」が理解できないのが当たり前です。
「無我」が、いちばんわかりやすいのは、自他の区別をしないと自分はなくなります。
「無我」はこれで一件落着しますが「主体的であれ」といいます。
無我なのに主体的とは矛盾しますよね。
その答えは「いのちあるものは、意思がなければ生きられない」ということです。
花も木も猫も犬も人間も、その準備をしてこの世に生まれます。
これが根源的ないのちです。
「根源的ないのち」に気づくことができると自他の区別がなくなります。
「みんな一緒なんだね」と思えるからです。
すると「因=果」が理解できる明かりが灯ります。
マインドフルネスとは「いのち」を生きる状態
マインドフルネス実践講座では、マインドフルネスを次のように定義しています。
- 主体的に積極的になりきる=アサーティブと同じ。アサーティブであることで、苦しみには原因があることを知ることができます。
- あるがままの自分=嘘偽りのない自分であることが癒しのはじまりです
- 注意深く=注意深く自分を観察しないと自分を誤解します。=苦しみに気づくことができなくなります。
- 状態=観察(内観)し、苦しみの原因を取り除けることに気づいて苦痛を取り除けます。
「主体的に積極的にあるがままの自分を注意深く内観してなりきった状態」とは、根源的ないのちを使って「いまこの瞬間」を生きることに他なりません。
「いまこの瞬間」を生きるとき、対象物があるはずです。
たとえば数学の勉強をしているなら、「数学」があります。
数学になりきるとは数学に没頭することです。
同じく瞑想しているなら瞑想に没頭すること。
没頭することがなりきることです。その瞬間「無我」になります。
食事をしているなら食事そのものになりきる。
歩いているときも同じです。
根源的ないのちを生きるなら、無我の連続=なりきることの連続でしかないので「諸行無常(=すべては移り変わる)」になります。
この状態がマインドフルネスです。
流れる雲のようにひとときとして同じじぶんなどどこにもいないのです。
なぜ、マインドフルネスでなければいけないのか
「人生はエンドレスにワンダフル」を実現することで、子も、子の子も安全で安心な長い人生を過ごすことができます。
先のことは解りませんが、100年以上生きることは決して容易なことではないと前提すると、念入りな準備をしておく方が良いでしょう。その大切さは過去の事例から学べます。
「一切皆苦」とお釈迦様が説かれたのは2500年前です。以来いろんなことが起こりましたが、根本はいまも2500年前も変わっていません。
その最大の理由は後に述べる「十二縁起」で理解いただけるように、原因と結果の間に縁起があるからです。縁起は努力を超えます。
その証拠となる象徴的な事例が、何も悪いことをせず、人に優しく暮らしてきた老人が、「誰でもいいから殺してみたかった」という精神に異常をきたした子どもに殺される。といったことです。
これは外から生じたことですが、後に述べる「十二縁起」でお話するように、自分の内側でも起こります。煩悩は払っても払っても押し寄せてきます。この煩悩を焼き払う方法が「根源的いのち」を生きるということです。
マインドフルネスは「根源的いのち」にアクセスする通路に入る入り口なのです。
自分とは言葉の響きがあるだけ
言葉のなかった時代、どのように物事を扱っていたのでしょう。
「自分」という言葉なくても、自分を感じることはできます。
その自分とは、精子と卵子で作られた60兆からなるネットワークであって、骨、筋肉、臓器、脳は、自分で支配できません。
ある人気女優が違法薬物使用・所持で逮捕され裁判で「薬物を摂取してもコントロールできると思っていた。でもできませんでした。」と言いました。
彼女は意思とは別に身体が薬物を求めたのは、細胞に異変が起こったからです。
意思が弱いのではなく、細胞のエネルギーの方が強かったのです。
身体に自分が動かされているのです。
私たちはこの関係を誤解しがちです。
精子と卵子によって作られた細胞は実在するが、自分は実在しないのです。
ではここに存在している俺は誰だと言いたくなりますよね。
自分とは、政治(生きる営み)をする上で、整理が必要なので、自分(名前のある生体)があるだけと言えます。
実体は、つながり、つまり縁起によってできた細胞のネットワークといってもいいのです。
諸法無我―すべては繋がりの中で変化している
- 一切皆苦
- 諸行無常
- 諸法無我
- 涅槃寂静
仏教でいう4大真理(真実)のひとつ。諸法無我は、「全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない」という真理です。
自分のいのちも、自分の財産・持ち物も、全て自分のもののように思って暮らしています。
「諸法無我」では、実はそうではないと説いています。
世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。
自然環境や60兆の細胞ネットワークでできているひとりと同じように、複雑で絶妙のバランスのうえに成り立ってます。
自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで「生かされている存在」であると気がつくのではないでしょうか。
「因(原因)=果(結果)」ですが、正しくは「因=果」の間に「縁」があるのです。
縁起
無我、根源的ないのちを大切に生きれば、「自分」という存在は消えて無くなります。
自他の分別がなくなるからです。
違うように見える他者も虫も「いのち」というレベルで見れば、みんな同じだからです。
いのちは「観想縁起図」で示したように、多くの縁でできています。決して自分ひとりのものではないと分かります。
なのに、無我(=自分はない)のに、「主体的であれ」とは矛盾しています。
さらに「あるがままの自分」というのは、ますます矛盾していますよね。
やはり解りにくいという方には「諸法実相(しょほうじっそう)」と「十二因縁」が参考になります。
「諸法実相」・・・すべての存在、ありのままの姿という意味です。
無明からはじまる「十二縁起」
十二縁起(十二因縁)は、「諸法実相」をより理解させるために説かれました。
十二縁起には、外縁起と内縁起があり、どちらも因果関係の物語になっています。
外縁起・・・・外面(物質的な面)からとらえた因果関係
内縁起・・・・人間の内面(心)からとらえた因果関係
次にご紹介する十二縁起は、人間を物質的な面からとらえた考え方で、肉体はどのようにつくられてきたかを十二の段階から考えることです。
最初は『無明(むみょう)』から始まります。
1.無明(むみょう)というのは、現代でも「その方面に明るくありません」と言うように、「無知(むち)」ということです。つまり無知なる魂(たましい)という意味です。
無知なる魂は、両親(夫婦)の2.『行(ぎょう)=行為』によって母親の胎内に3.『識(しき)』が宿ります。
「識」とは知識の識で『生物の特性を備えたもの』という意味で人間のことです。
まだ人間の形になっていない不完全な識(しき)がだんだん形を整えてくると、4.『名色(みょうしき)』になります。
名(みょう)とは無形のもので、精神や心の状態をあらわし、色(しき)はその逆の形あるもの、つまり肉体を指します。
名色(みょうしき)というのは、魂(たましい)が入った人間の心身ということです。
名色(みょうしき)が発達すると六入(ろくにゅう)、つまり5.『六処(ろくしょ)』と呼ばれる、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜっ)、身(しん)、意(に)、すなわち六根(ろっこん)が調ったという意味です。つまり人間として、この世に誕生する意味です。
五感(ごかん)と心、唯識論で言ういわゆる六識が発達してくると、視覚(しかく)、聴覚(ちょうかく)、臭覚(しゅうかく)、味覚(みかく)、触覚(しょっかく)などをはっきり感じられるようになります。
このように、『身体と心=名色(みょうしき)と六処(ろくしょ)』が互いに影響(えいきょう)しあった状態で感覚器官が発達した状態を6.『触(そく)』といいます。
触(そく)の感覚器官が発達してくると、感受性が強くなってきて、好き嫌いの感情がでてきます。この状態を7.『受(じゅ)』と言います。人間の年頃で言えば、六、七歳を指します。
さらに成長すると、8.『愛(あい)』が生じます。
愛にはいろいろな意味がありますが、外縁起(がいえんぎ)での愛は主に異性に対する愛情です。
異性への愛情が芽生えてくると、相手を征服して自分のものにしたいという所有欲、独占欲がでてきます。それを9.『取(しゅ)』と言います。
また、逆に自分の嫌いなものから、離れようとしたり、嫌ったりします。
このように分ける感情が出てくることを10.『有(う)』といいます。
10.『有(う)』のレベルまでくると、生きる葛藤、苦しみがいろいろな形で表れてきます。
このように、さまざまな苦楽の意識と行為を業として魂に記憶し、このような意識で人生を過ごすことを、11.『生(しょう)』といいます。
『生(しょう)』は本人だけでなく、子々孫々の『生』にも影響を与えます。
この状態が、当協会のメインテーマ「人生はエンドレスにワンダフル」の裏現象です。
無明
仏法では、『無明(むみょう)』をなくさない限り、親や先祖の『無明』が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、束縛やとらわれから、離れることも逃れることもなく、負の循環を継続してしまうのです。
そして、それは一生続いて、最後に老いて死を迎える12.『老死(ろうし)』に至るのです。
以上が、人間の肉体を中心とした外縁起による十二縁起(じゅうにえんぎ)です。
十二縁起で自己執着心が生まれてしまう
ここにあげた「十二縁起」は身体面の「十二縁起」ですが、「諸法実相(=ありのままの姿)」をより深く理解する目的で説かれました。
スターウォーズのダースベイダーが悪の世界に堕ちたように、外縁起による「十二縁起(じゅうにえんぎ)」にも、負の循環に入り込む因果があることがわかります。
上の図にある「阿頼耶識」「末那識(自己執着心)」が発生する縁起がありましたね、
「7.受(じゅ)〜10.有(う)」がそうです。
有(う)の段階で分けることを強めます。
分別しない心を育むと無我でありながら主体的になれる
人間は身体を支配できると思い込んでいます。
しかし身体は意思とは関係なく活動します。
無知なる魂は成長と共に学んでいきますが、それ以上のエネルギーで活動します。
しかし強いエネルギーであっても、無我の状態で没頭すれば打ち勝つこともできます。
これが修行(=トレーニング)とは、「縁起」に気づくための作業です。
ただ生きるだけではなく、縁起によって「生かされている」ことに気づく。
たとえば、ただ旅行しただけではない旅
ただ食べただけでない食事
縁起があって、それらができていることを知る行い。
「因(原因)=果(結果)」の間には「縁(縁起)」がある。
誰もが縁起の結果に存在している。
根源的な「いのち」に気づけば、分別しない心が生まれます。
分別しない心を育むと、自分も他者もなくなるので、無我でありながら主体的になれます、
つまり我とは、自分と他者というように分けるから存在してしまうのです。
分けるという行為は「言葉」を使って実行しています。
この主体的とはなりきる。没頭することです。
まとめ
「十二縁起」とは12の因果関係を説明したものです。
誕生に至るプロセスからはじまり、死に至ります。
12の縁起(原因と結果をつなぐ縁)の過程に「執着心」が生まれる因果があります。
これを避けるのが教育です。
教育とは育むことを教えることで、自分で自分を育めることを教えて、そのチャンスとヒントを与えてあげることです。すなわち「諸法無我」へ誘導します。
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