「四念処(四念住)」は、お釈迦様が入滅される前に説かれた「三十七菩堤分法」の七科目の一科目です。
- ①四念処(四念住)
- ②四正断
- ③四神足
- ④五根
- ⑤五力
- ⑥七覚支
- ⑦八正道以上、七科総計37種類の修行方法です。
1.身念処(身念住)
マインドフルネス瞑想。七歩歩いて、唯我独尊。
「身念処(身念住)」とは、わが身は不浄であると観察することです、。
身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察します。
身念処(身念住)についてはこんな話があります。
ある男が美しい女性に出会います。
女性を想う気持ちを伝えたところ、女性はよろこぶこともなく、「この肌の下には、醜い身体が隠れている。血みどろの肉塊でしかありません。内臓の器官はどれも非常に汚らしいものです。
さらに肉をそぎ落とすと、不気味な骸骨があらわれてきます。
この肉体から排出されるものに、何一つとして美しく清浄なものはありません。
なのに、あなたは、私の本当の姿を見ることもなしに、肉体の不浄性を直視せず、美化して、愛しいという。」
たしかに言われてみればその通りです。
では、それを知ってどうすれば良いのでしょう。
間違った捉え方(思い込み)が煩悩の元なのです。
よく観察して、真実を知って間違った思い込みをリセットして、正しい見方に矯正して煩悩を消し去るのです。
- ただ誰かから聞いたからといって、それを信じるな。
- 何代も受け継がれたからといって、その伝統を信じるな。
- たくさんの人の間で語られ、噂になったからといって、それを信じるな。
- あなたが所属する宗教の聖典に書かれているからといって、それを信じるな。
- ただ貴方の先生や先輩の権威だからといって、それを信じるな。
- しかし、観察と分析を行なった上で道理に合っていて、すべての者の利益になると貴方がわかったならば、それを信じなさい。
ブッダ最期のお言葉「自灯明・法灯明」につながるトレーニングです。
2.受念処
七歩歩いて、唯我独尊。
一歩目のトレーニングの二は「受念処」です。
感受とは、感受性という表現をします・
心で感じる能力
感受は苦であると観察する。
一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、これら感受作用について観察する。
有名な「一切皆苦」のことです。
「一切皆苦」・・・・人生は思い通りにならない
まず、お釈迦さまは、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである、という真理を説いています。
仏教の「苦」とは、単に苦しいということではなく、「思い通りにならない」という意味です。この「苦」には、「四苦八苦」と呼ばれる八つの苦しみが挙げられます。
こうして読んでいくと、だんだん暗い気持ちになります。
決定的な苦は、死・別れ・老い・病ですが、「受念処」はトレーニングプログラムです。
人生はつらいものだと思うのが煩悩。目的は正しく感じて煩悩を消す。
「諸行無常」ですべては移り変わるとも言われています。何事も川を流れていくように変わっていく。
死・別れ・老い・病も留まることなく過ぎていく。
アメリカ仏教では、ポジティブに感じて「一切皆苦」を「人生はでこぼこと道」と解釈。
自分を傍観者にせず、主体性を大切にしました。
「働かされている」と思う人が多い日本と違い、自らの意志で「働いている」と思うアメリカ人。違いの根源は、ただただ自分にある。
自分に目的がないか、あるかの違い。
これからの人生100年時代は、後者の時代です。
一歩目のニ「受念処」です。
3.心念処 (しんねんじょ)
七歩歩いて、唯我独尊。
一歩目のトレーニングの三は「心念処 (しんねんじょ)」です。
心念処 (心念住)
「心について(心は無常)」をみる(気づく)瞑想です。
なぜこんな瞑想をするかというと、「原因=結果」ですが、「結果=原因』と考えるのがブッダ流だからです。
たとえばカップルが盛大な結婚式をしています。
早ければ成田離婚、遅くとも5年もすれば不機嫌な二人になります。
稀に死ぬまで仲のいいカップルがいます。
なんで離婚したの?
「原因=結果」ですが、「結果=原因』だと知っていたら、死ぬまで仲のいいカップルになれます。
心は無常だと気づいていたら、無常にならなくて済むこともあるというのが、ブッダが伝えたいことです。
仏教はエンドレスにワンダフルですよね。
心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察します。
つまり心は無常であることを観察します。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私の心が執着している、
私は心が名誉を求めている。
私は心に怒りがある、
私は心に妄想がある、
私は心に怯えがある。
その他、心の状態について観察します。
4.法念処(法念住)
七歩歩いて、唯我独尊。
一歩の四。は「法念処(法念住)」です。
諸法は無我であることを観察します。
諸法とは、すべてのことですが、私たちはその中に「自分」という存在も含まれていると考えがちです。
この世には、「私が存在している」と確信しています。
しかし、それは錯覚だといいます。
この世に自分などいないのです。私は煩悩に基づいて想像している。
煩悩とは、心身を乱れさせる心の汚れです。
つまり執着です。(これを掘り下げ、深めると「阿頼耶識=深層心」に行き着きます)
目の前にりんごがあるとします。
①りんごがあることを認識する
②自分の中に映像があり、言葉(りんご)を使い、確定します。
③執着が生まれる
因果関係をのプロセスを観察します。
言葉は限界と束縛を生みます。
言葉で迷うから言葉で正していきます。
頭で理解するのではなく、体で理解する。
つまり瞑想を繰り返しなりきる(深層心に成育させる)まで理解します。
三十七菩堤分法
お釈迦様は入滅前に「三十七菩堤分法」を説示されています。
ブッダが余命三ヶ月になったとき、「重閣講堂」に、たびたび弟子を集めて教えを説き始めます。
そして『「三十七菩堤分法」をよく実践せよ。
それが世の人々の利益と安泰に役立つのだ』と語ります。
ここだけ聞くと修行して人の役に立ちなさいと教えているようですが、そうではありません。
修行の目的は自分の「煩悩」を消し去り、いつでも涅槃に入れるようにすることにあるからです。
「三十七菩堤分法」は、①四念処(四念住)②四正断③四神足④五根⑤五力⑥七覚支⑦八正道以上、七科総計37種類の修行方法です。
この「七科総計37種類の修行」が「七歩(=七科)歩いて唯我独尊」のことだろうと推察できます。
つまりお釈迦様が誕生したときに、七歩歩いて「唯我独尊」と言ったと伝わっていることです。
唯我独尊
唯我独尊とは、「自分がいちばんエラい」と解釈している方もいますが、ブッダは、自惚れ、自己卑下を厳しく否定されていますので、間違いであることは明らかです。
唯我独尊とは、「人のいのちは一つしかない、一回限りの人生を大切に生きなさい」
すなわち、七歩歩いてとは、「三十七菩堤分法」をよく実践することで、一回限りの人生を大切に生きることができると説かれたのです。
関連用語
まとめ
ブッダはシステム思考に徹しています。理由は「因=縁=果」がシステムそのものなので、対抗するにはシステムが効果的なのです。
仏教とは、想像以上にポジティブな教えではないかと思います。
主体的に積極的になりきることが重要です。
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