人はあるのでなく、人という状態があるのに過ぎません。
マインドフルネスは、人という状態を、いまここ、あるがままに、なりきった状態に置きます。
こんにちは、人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日。日本代表のゲンキポリタンです。
いまここ、あるがままに、なりきった状態をさらにアップグレードした状態が慈悲です。
では、究極のよろこび、慈しみ愛する、慈愛への道をご案内したいと思います。
仏教の慈悲
仏教では「慈悲」を次のように定義しています。
仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、一切の現象が鎮まることから生まれる涅槃に到達するであろう。 (法句経三六八)
慈悲は仏教の真髄なのです。しかし、慈悲の心は何もせずに放っておいて生まれてきません。自らが育てていくものです。育て方が3大基本に集約されています。
3大基本は、状態の推移だった!
3大基本(慈悲の育て方)について、3回連続でマインドフルネスとともにお話してきました。
- 無我(の状態)・・・・空(くう)、なんにでもなりきれる状態=本性
- 縁起(の状態)・・・・因果必然、なるようにしかならない状態=本性でない
- 慈悲(の状態)・・・・自他ともに慈しみ愛しむ状態=本性に戻れ
まとめると以上のことになります。超簡単ですね。(お笑いです)
本性に戻り、もともとのいのちを謳歌するために、慈悲の状態になろうというのが今回です。
慈悲とはなにか
慈悲という言葉の響きには、どことなくよそよそしく熱意を感じない人も少なくないと思います。
その理由は「御慈悲でございます」などへりくだった言い回しがあるからです。
また慈しみ、憐れむというように弱者へ寄せる上から目線的なニュアンスを感じるからではないでしょう。しかし間違いです。慈悲は施しではありません。状態です。
抜苦与楽(ばっくよらく)という仏教用語があります。
仏教でいう仏の慈悲のはたらき。仏・菩薩が衆生しゅじょう(この世に生きるすべての生あるもの)の苦しみを取り除き、安楽を与える意味とあります。
これも間違いです。慈悲とは、苦しみを取り除き、安楽に住する状態です。
まず慈悲の瞑想で自分を楽にする
瞑想とはなりきること。
慈悲は、衆生の第一まず自分の責任者で自分に向けられるものでなければなりません。
自分を放置して他者に目を向けると「責任放棄」で、バチがあたります。
慈悲の瞑想という言葉があります。
瞑想とはなりきることですから、自分を安楽になりきった状態=自然体にします。
根源的ないのち「もともとのいのち」は生きたいと思って人という状態になりきったのですから、生物学的に安息を求め、痛みを除去します。ゆっくりじっくり自分の身体を観察します。
これがヨーガ、日本に渡って瞑想、禅宗でいう坐禅、欧米風にマインドフルネス瞑想となります。
体幹を使うロングブレスも応用編になるかと思います。
つまり体幹を全開放して、心を開き、全身を自分で整え休息します。
重要なのは身体を整えたあと、休息することです。
整えたあとの休息が新たな気づきを定着させる
休息はもともとのいのちをゆっくり遊ばせることです。
もともとのいのちは遊んでいるうちに、あらたな気づきをして潜在意識と顕在意識に定着させます。
なんの執着もない子どもが遊びまわっている間に気づくのに似ています。
これが繰り返し同じことをしているのに、毎日が新しいという醍醐味です。
うわべだけの新しさに惹かれて右往左往してうわべだけに興じていてはこうはいきません。
神経細胞が作った古いマインドトークをすり抜けると脳に新しい回路を作っていきます。
毎日の繰り返しが新しい回路の工事を進めてくれるので、全身に新鮮な風を送り込んでくれます。
無分別智
それは無分別智からはじまります。
無分別智とは自と他、上と下、白か黒か、というように二分法的思考で分けない智慧です。
もし、私は休息するから、あなたは働いてくださいと、周囲を働かせたら、私はざわついて休息できないことに気づくでしょう。
私は休息するので、あなた方も一緒に休んでください。とお願いするのが自然です。
ところが周囲の人は、私は仕事があるので休めません。と返します。
では、手伝うので、片づけてしまいましょう。
これが自然な共感の道理です。
因果必然、なるようにしかならない縁起に従った無分別の智慧です。
自分を抑圧したわけではありません。自分も相手も尊重する智慧です。
英語(米国)にもアサーティブという概念がありますが同じです。
慈悲とは共感。
自分を人として、自分という人のために、慈しみ愛する気持ちが、自然と他者にもつながり、共感し、「生きとし生けるものすべてに「し合わせ」」につながります。
小慈悲は大慈悲に向かって育っていきます。これも縁起です。
次第に人生の悩みや苦しみが消えていきます。
縁起によって、小慈悲は大慈悲に育つ慈悲の道は、抜苦安楽の内に執着(エゴ)という苦を乗り越える道なのです。
ライフプラン(人として生きる慈愛と智慧)
自分を慈愛する気持ちがなければ、快楽の毒に溺れ、粗末にあつかってしまいます。
もともとのいのちは生きたいと願い、人としてこの世に生を受け誕生しました。
生き切るのが、自分という人のための慈悲であり、慈悲は仏教の真髄です。
しかし、慈悲の心は何もせずに放っておいて100年ライフに生まれてきません。
慈悲は自ら(人)が自ら(=もともとのいのち)のために育てていくものです。
気づきと悟り(実践)が共感(=慈悲)につながります。
自分に対する慈悲の心があるなら、万が一に備えて、
など自分、家族を守る手立てに工夫を凝らすでしょう。
万が一があった場合、いくらあれば家族は安心して過ごせるのか、どんな準備をすればいいのか、その実践の姿に慈悲がかたちになります。
一人一宇宙だけど、慈悲によって繋がって大宇宙を形成した「もともとのいのち」は精励の大河を流れ、大海に出て、やがて天に昇ってまた源流から湧き出る繰り返しをしています。
まとめ
いまここ、あるがまま、なりきった「慈悲のシステム」についてお話しました。
- 無我(の状態)・・・・空(くう)、なんにでもなりきれる状態=本性
- 縁起(の状態)・・・・因果必然、なるようにしかならない状態=本性でない
- 慈悲(の状態)・・・・自他ともに慈しみ愛しむ状態=本性に戻れ
慈悲は、100年ライフを生きる智慧とエネルギーとなって、エンドレスにワンダフルな旅をループします。
キーワードはいまここ、あるがまま、なりきる囚われのない無邪気な子どもの心(無我)です。
マインドフルネスとはいまここ、あるがままに、なりきった状態です。
いくら知識があっても無意味。実践こそすべてなのです。
コメント