見えぬけれどもあるんだよ 。見えぬものでもあるんだよ。
こんにちは、いきいきゴエスのNaoman-Minoruです。
知って得する、すてきな仏教ワークブックへご案内します!
新型コロナ、狂信的な指導者による他国への侵略、平気で嘘をつく権力者、一個人の良識や良心では対応できない事態が相次ぎます。初期仏教は苦しみを克服することを目的にお釈迦様が打ち立てた哲学ですが、お釈迦様でも想像しなかった狂気が世界を覆います。さにあらず、なんでも起こることを前提に真理を宇宙にまで追求したのが仏教で、アベンジャーズのさきがけです。すべての哲学のもっとも重要なことは「真理をどのようにあなたの暮らしに役立てるか」です。仕事に、人間関係に、恋愛に、課題は違ってもすべての事象に対するベストアンサーとなるのが「哲学」です。
ここでは「阿頼耶識縁起」についてお話します。あなたの本性は、「無限の可能性(空)」を持っているだけでなく、常に「気がついている」という性質を持っています。その実感を得るための叡智が「無分別智」です。
縁起とは
「縁起」とは相互依存の世界に生きている限り生起する事象のあれこれです。
「AあればBあり、AなければBなし」つまり因縁(=原因があって生起する現象。)は、仏教を理解するために、外せない言葉で、「無我」、「空」に繋がってます。
言葉は違いますが、「無我」も「空」も意味に大差なく、あらゆる事物は現象として生起しているだけで、それ自体を根拠づける本質は存在しないという教えです。
あるといえばある、ないと言えばない。あらゆる事物は現象として生起しているだけで、どのような事象もあるようで、ないといえばない、自分が考え出したことを映像のようにスクリーンに映し出しているのだから、あるがままに放置しておけばやがて落ちつきが広がり、苦もなくなるという「苦」に対する根本的な対処方法も含んでいます。
母の死と交換に誕生されたインド地方の王子ガウタマ・シッダールタ(=お釈迦様・釈尊(しゃくそん)・仏陀(ブッダ))は次のような苦をどうすれば克服できるか、一途に対峙され、真理を見つけて、ついに涅槃(=あらゆる煩悩や苦しみから解放された安らぎの境地)にたどり着かれました。
四苦と八苦
四苦とは
「一切皆苦」に代表されるように、「世の中は全て苦しみであり思い通りにならない」という現実のことです。
「生老病死」人間として避けられない四つの苦しみ。以下の4つがあります。
生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと。
- 生苦(jāti dukkha) しょうく。生まれることに起因する苦しみ。
- 老苦(jarāpi dukkha) 衆生の老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
- 病苦(byādhipi dukkha) 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
- 死苦(maraṇampi dukkha) 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。衆生が免れることのできない死という苦しみ。また、死ぬときの苦しみ、あるいは死によって生ずるさまざまな苦しみなど。
八苦とは
「四苦八苦」人間のあらゆる苦しみ。 生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦・ 怨憎会苦 (おんぞうえく )・ 求不得苦( ぐふとくく) ・ 五陰盛苦 (ごおんじょうく )を加えた八苦。
- 愛別離苦(あいべつりく、piyehi dukkha)
親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。愛する者と別離すること - 怨憎会苦(おんぞうえく、appiyehi dukkha)
怨み憎んでいる者に会う苦しみ - 求不得苦(ぐふとくく、yampiccha dukkha)
求める物が思うように得られない苦しみ - 五蘊取蘊(ごうんしゅく、pañcupādānakkhandhā dukkha/五蘊盛苦(ごうんじょうく)
五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
時代の経過とともに、学ぶことから拝むものに変化していった裏には、出家していない人にも「もっと簡単に」解りやすくという知恵が働き、後発の部派が増えるほど、「より深くより簡単に」という思いが働き、同じ意味でも違う言葉が乱立して振り返れば複雑化していきました。
学ぶ人には複雑ですが、教えの根本はシンプルだし、重要用語を理解すれば教えもしっかり解って、ライフスキルのひとつ、ストレス対処スキルの向上に役立つので、「し合わせ」な人生にお役立てください。
▼「縁起」を感じる「金子みすゞ」さんの詩をご紹介しておきます。
「もうおやすみ」と呼びにくる。
(もっとあそぶといいのになあ。)
けれどかえってねていると、
いろんな夢がみられるよ。そしていい夢みていると、 「さあ学校」とおこされる。
(学校がなければいいのになあ。)
けれど学校へ出てみると、
おつれがあるから、おもしろい。みなで城取りしていると、
お鐘が教場へおしこめる。
(お鐘がなければいいのになあ。)
けれどお話きいてると、
それはやっぱりおもしろい。ほかの子供もそうかしら、
私のようにそうかしら。(金子みすゞ「次からつぎへ」)
阿頼耶識縁起とは
「諸法無我」は、この世の全ての事象(法)は因縁によって生じたものであって実体性がない(無我)という意味で、「色即是空」と同じ意味です。
これらの言葉から解るように、「阿頼耶識縁起」も実体があるわけではなく、縁起によって生起します。
阿頼耶識
ただ、「阿頼耶識(あらやしき)」は、太古の昔から受け継いできた「もともとのいのち」が善悪の区別なく記憶しているという意味で重要です。識とは蔵のことです。
実在するのは、前五識と意識のみで、すべては阿頼耶識から生じたものですが、阿頼耶識も実在しているわけではないので、すべては空(「ある」と「ない」)です。
空と縁起
『空(くう)』は、仏教の教えの理解する上で、もっとも大事な真理ですが、いくら聞いても理解しにくい原因は、『縁起(えんぎ)』を理解する上で欠かせない言葉だからです。つまり『縁起』を理解する上で補完する概念なので『縁起』を抜きにして考えると分からなくなるのです。
縁起観(十二縁起)こそブッダの悟りの根本でありすべての教えの原点です。
宇宙の万物・万象は、単独に生じたり、存在しているのではなく、すべてそれぞれが「縁起」で起こる相互依存の関係にあるという「縁起感」が、空の教えの根底にあります。
空は、時としては〈無〉と同じ意味に使われ、むなしいとか、虚無とかいったような否定的な意味を持つこともありますが、仏法でいう空のほんとうの意味は、〈すべては調和しており、平等に生かされている〉ということなのです。
つまり物事はすべて縁起があって生起しているので、縁起なしに生起しない、つまり単体では空だという意味です。ヒトはそれぞれに個体として存在していると考えますが、空なので実体として個人は存在しない。「AあればBあり、AなければBなし」Aがいるから私は存在するという相互依存の関係を説いた教えです。
たとえば唯識論を中国に持ち帰った玄奘三蔵法師は、国禁を犯して密かに出国し、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に入ります。高昌の王は、熱心な仏教徒だったので、玄奘を認め高昌に留め置こうとしますが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせます。その力添えがあり、インドに到達した玄奘は「唯識」を学びます。こうして16年間学び、その成果を中国(唐)に持ち帰ろうとします。しかし国禁を犯して密かに出国しているので、無事に帰ったとしても身の安全は保証されていません。危険を冒して帰るのは、仏教によって国を鎮めたい願う国家に貢献したかったからです。つまり縁起なしに生きていけない一例と言えるでしょう。
一人一宇宙
心がどこにあるかわかりません。わからないからとないというわけでもありません。自分の内部にあると思って探すので見つかりません。自分が考えたイメージ図では、心は体の外にあるというものです。卵の殻のように、阿頼耶識が身体を包んでいて、身体に前五識、脳に意識の六識が存在。本性を見ている末那識(自我執着心)が神経ネットワークのように張り巡らされているという構成です。ポイントは本性である阿頼耶識が卵の殻のように自分を包んでいること。阿頼耶識縁起で事象が生起すること。自分の外にあるので認識するのが不得意です。
「縁起」とは、私たちは、宇宙の涯を見ることができないように、ほんとうの自分を自分で見ることはできません。鏡で見ても反対にしか映らず、生まれた記憶もなく、死んだことさえ自分ではわかりません。
ブッダは誰も入ることも出ることもできない世界にいることを「一人一宇宙」と表現しました。大宇宙の中の小宇宙は小さいけれど、繋がっている。
思考も感覚も感情も肉体とともにあります。思考も感覚も感情も、肉体が育んでいるのです。瞑想は肉体が思考も感覚も感情を育み、思考・感覚・感情が肉体を育んでいる事実を、まず呼吸を通して、認識して実感するためのものです。
いったい”私”とは何なのでしょうか。と宇宙創世にかかわる「ゆらぎ理論」の第一人者、理学博士佐治晴夫氏は問います。
では「一人一宇宙」は、どのようになにと繋がっているのでしょう?
「樹木を伐ってはいけない」理由
呼吸は、肉体が思考も感覚も感情を育み、思考・感覚・感情が肉体を育んでいる事実を認識するだけでなく、阿頼耶識縁起、さらに宇宙と繋がっていることを認識する上でも、とても重要です。佐治博士の文から探ってみます。
私たちの心は、片時も留まることをしません。喜び、悲しみ、怒り、寂しさなどが入り交じって、どれがほんとうの私なのかを見定めることはできません。
その一方で、私たちはこの世の中に存在するすべてのものは、同じ基本物質たちの組み合わせでできていることを知っています。水は水素と酸素からできていますが、その中の水素は、星の中にある水素と同じ水素ですし、酸素は、私たちが吸っている空気中の酸素と同じものです。
ところで、私たちが生命活動を維持するために吸っている酸素は、体の中にある肺を通して、血液に送り込まれます。そして、体の中で活動した後は、二酸化炭素に姿を変えて再び呼吸によって、空気中に放出されます。
その二酸化炭素を、水と太陽光の力を借りて、私たちに必要な酸素に変えてくれるのが、植物です。
つまり、植物は、私たちの体の外にあるがもう一つの肺のようなものですね。
言い換えれば、私たちは、植物のおかげで生きているといえます。ですから、極端な表現かもしれませんが、樹木を切ることは、自分の体の外にある”もうひとつの肺”を切ることになります。これが、科学の立場から見た「樹木をみだりに伐ってはいけない」理由です。
このように考えていくと、どこまでが自分の体なのか、自分と他との境界線がぼやけてきます。
と、佐治博士が言うように、境界線はぼやけているのです。つまり繋がっているのです。
太古の昔から切れ目なく、私と他者、時間、空間、概念を超えて、今日から明日に、受け継がれてきたもともとのいのちが「生きるため」に繋がっているのです。
つまり、そこに「ある」と「ない」を分けない叡智「無分別智」と唱えられた理由があります。
「ある」と「ない」
結局、境界線もなく、私たちは一人残らず自然の分身でしかないとわかります。
分身の目の前にある宇宙は、大宇宙と繋がっていて、その涯てを見ることもできないのです。
見ることができないからといって「ない」わけではありません。「空」はチベット語では「から」という意味ですが、それは私たちの感覚や思考ではとらえられる範囲を超越していてとらえることができないという意味です。「考えることができない」とか、「想像できない」「イメージできない」という意味です。ですから「なんでも起こり得る可能性」の意味が加わります。
「空」と「気づき」は切り離せない。あなたの本性は、「無限の可能性(空)」を持っているだけでなく、常に「気がついている」という性質を持っている。この自発的な気づきを、仏教では「明晰(無分別智)」「心の光明」と呼ぶ。それは空から絶えず生み出されてくる思考・感情・感覚など、無限にある対象を認識し、区別する力だ。「明晰」は、私たちが意識していないときも働いている。
自利利他
新型コロナが蔓延し、その突破口にマスクに代表される「自利利他」の重要性が説かれる時代に、時代錯誤も甚だしい気色の悪い権力者たちがうろつく。知り合いでもないプーチン大統領がベジタリアンであっても、なくても、他国に侵略することで、パンが値上りして、いままで2つ食べることができていたのに、ひとつになるのは、私たちが相互依存の世界に生きているからです。
お釈迦様はことの善悪の判断は、その行動が相手、第三者にどのような影響を及ぼすかで評価するとされました。つまり良識の基準です。これを無視した自由はないというのが、2500年前の自由の定義です。阿頼耶識には善悪の区別なく太古の昔からが記憶されているので、あらゆる可能性が潜んでいます。可能性とは「気づき」のことです。つまりすでにどうするべきか気づいている。その気づきを引き出し体現することが、太古の昔からいまここでこの瞬間もあなたの心臓を動かしている「もともとのいのち」の願いなのです。
人、物、事は、実在せず、縁起の上で生起する。あるか。ないか。あるといえばあり、ないといえばない。すなわち空(くう)とは、無限にして自発的な気づきことで、「明晰(無分別智)」「心の光明」と呼ばれ、思考、感覚、感情は、肉体に宿っている。「気づいているならちゃんとやれよ」マインドフルネスとは対象になりきった状態のこと。
対象とは、食事の準備、食べること、寝ること、働くことなど日常のすべてに宿っていることで、いのち込めるとは、美辞麗句ではなく、自然な状態に他なりません。
花はいのち込めて咲き、魚はいのち込めて泳ぎ、人間だけが、心と体をバラバラにしてさまよっているのです。なぜ、そんなことになったのか、「宇宙のかけら」であることを忘れて、宇宙征服をしょうとする勘違いを正し、マインドフルネスなあるがままの姿に戻すために、気づきを自分の手に取り戻すことから始める。その踏み出す一歩の手助けに自利利他な哲学があります。
それはお空が映るから。
海もくもってみえるもの。
それは夕日があかいから。
まとめ
阿頼耶識が起動するには「縁起」が必要なので、十二縁起に注意しましょう。執着が起こる最大の縁は「愛(妄執)」です。
阿頼耶識には善悪の区別なくすべての記憶が収まっているので、エンドレスにワンダフルな人生を過ごす記憶をつないで可能性を最大限活かします。
この心の流れが『十二縁起』であり、一筆書きの円で描かれた「十牛図」の八枚目の絵「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう」で描かれた最高度の完成された智慧の象徴です。
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