
こんにちは。人生100年時代の心と身体とお部屋をゴエスする「マインドフルネス実践講座」コーチ、特別な一日日本代表ゲンキポリタンあなたの願いを実らせるNaoman-Minoruです。
自分を束縛しているのは、「自分」という意識・・・「自我」
自我から脱落すると「対象」に集中できるようになります。
対象とは、いま取り組んでいること、取り組もうとしていること。
仕事・勉学・スポーツ・家事・休息あるいは計画や目標などです。
「我を忘れて」というように、対象に没頭している状態は心地いいですよね。
自然体だから、没頭できる目標。計画の作り方について考えます。
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自我の束縛から解き放たれる
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。
万法に証せられるといふは、自己の身心
および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむなり。

天地宇宙の一切のもののはたらきによって悟りがわがうえに現れるというのは自他の身心をしてそっくり束縛から脱せしめることである。
つまり、自分を束縛している「自我」と、きれいさっぱりお別れできるということです。
諸行無常を難しくしているのは執着心
人は誰でも「一人一宇宙」といいます。一動物も一宇宙です。
誰も自分の世界から出ることも入ることもできません。
みんな自分の宇宙の中で暮らしています。
こればっかりは、誰がどう抗っても、どうにもならない真実です。
世界は宇宙に関心も強く、競って宇宙に飛び立っていきますが、宇宙の果てがどうなっているのか、謎のままです。
孫悟空の冒険譚に、いくら雲に乗って飛んでいっても結局は「三蔵法師」の手の平だったというエピソードがあります。
結局、本質的なことはなにもわかっていないのではないでしょうか。
一瞬一瞬、いま、ここにだけ「自分」がある
「あるがままに」とは言うけれど、私たちは、なにが「ある」のかさえわかっていない諸行無常に生きているのです。
一瞬、一瞬、コロコロ変わるのも、揺るぎない真実です。
これも、どう抗っても、どうにもならない真実です。
なるほど一瞬一瞬、コロコロ変わる自分なんかいないのも同然。
「自分」という縄を解くと気が楽になります。
窮屈にしている「自我」という縄。
一瞬一瞬、コロコロ変わる自分を自分と言えるのでしょうか?
つまり自分とは、一瞬、一瞬にしか存在していないのです。
これも、どう抗っても、どうにもならない真実です。
一瞬一瞬、いまここにだけ「自分」があるという目線で人生を捉え直してはどうでしょうか?
“なりきる” 目標・計画の立て方
一瞬一瞬、コロコロ変わる自分は、目標や計画とどうつきあえばいいのでしょう?
目標も計画も実践しなければ意味がありません。
しかし策定したことで潜在意識の重圧になる、あるいは執着にしてしまい逆に打ち込めない場合も少なくありません。
「阿頼耶識縁起」にまかせる
フロイトは、顕在意識と潜在意識を「氷山」にたとえて公表したので、顕在意識と潜在意識の関係は上の図のように考えがちです。
自分の場合、「こころ」はどこにあるのかに注目して考えるので、イメージが変わって次の図「阿頼耶識縁起」のようになります。
私たちは、卵の殻のように身体を「こころ」に収納しています。
潜在意識は顕在意識のように自在にはならず、顕在意識で制御できません。
ビッグバン以来の無数のカルマ(業=行為)が蓄えられているので、行為を引き起こすまでは決して消えることがないからです。
では全く思い通りにならないかというと、顕在意識で行動を変えることで潜在意識(=阿頼耶識)に影響を与え続けることができます。
阿頼耶識にある無数のカルマとどう付き合うか。
顕在意識で行動を変えることで潜在意識(=阿頼耶識)に影響を与えるとは、どういうことか。
簡単な事例で説明します。
甘いものに手が出てダイエットができない人の場合、甘いものに制御不可能になるカルマが行為をさせてしまうのです。
これを意志(顕在意識)で制御できないのなら甘いもののない環境に身を置けば、次第にカルマは減少させられます。「一日一生」の気概があれば一日だけの我慢なので難しくありません。
「チリも積もれば山となる」の教えがあるように、「一日一生」は気づきの暮らしです。
「チリも積もれば山になる」ので、悪いカルマが蓄積されると100年ライフ途上で健康を害してしまいます。
もともと達成されていない目標や計画に取り組むことは、叶っていないことを思い知る状態に置かれるのでストレスを溜め込むことになります。末那識(自我執着心)がうごめく格好の状態です。
なりきればメインストリーム
いま、ここ、この瞬間に、全力で事に当たっている者には、いまがすべてです。
いま、ここ、計画になりきれば、計画と対立することはないので、「頑張らないと」といった負担はありません。表層の行為は深層に影響を与えます。
深層は身体を守っている殻である「もともとのいのち」に影響を与えます。
この関係のどこかがダメージを受けると、ダメージはガン細胞のように転移し、広がります。
目標や計画も遠いどこかにあるのではなく、目標も計画もいまここの瞬間にある。
つまり手の中にあります。
手の中にない目標や計画はないのも同じではないでしょうか。
自分を束縛している「自我」と、お別れできると、対象になりきって集中できます。
やりたいには、どんな目標もストレスがない
「やらなければならない」という思いは主体性がないのでストレスでしかありません。
主体性のない目標は結果を出すことで、人に認めてもらう必要があるからです。
「やりたい」には主体性がいっぱいなので、人に認めてもらう必要はありません。
人に認めてもらいたい欲望には、「できない」と「できる」が葛藤しています。
「できない」と「できる」が葛藤はストレスを打ち消すために新たな「消費」を必要とするので、生産性を低下させます。
「やりたい」は「できない」と「できる」の中道を駆け抜けます。
まとめ
気が楽になる目標の作り方ができるのは、あるがままのこころで目標を作るからです。
「やらなければ」ではなく「やりたい」気持ちを使うからです。
「やりたい」が見つからなくなるのは、自我執着心にこころが絡め取られているからです。
自我という牢獄から自分を解放すれば、あるがままのこころに気づきます。
これがしたい!
自我から脱落すれば没頭できる目標を発見できます。
自我から脱落するには、「自分」を忘れること。つまり没頭です。
愉しい暮らしとは、没頭の連鎖です。
いま、ここに生きる。
なぜなら、自分も他者も、コロコロ変わる生き物だからです。
つまり、自分も他者もいない。唯、一瞬、一瞬の行動があるだけなので、
自分に執着しても無意味なのです。
















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